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ページタイトル:摂津池田氏

※リンクの張り過ぎでページが重くなってしまいましたので、インデックスを作成しました。こちらからめぼしい項目をご覧になられると時間の短縮になるかと思います。ご活用下さい。

<平安時代末期頃>
池田氏の出自ははっきりしないものの、この頃豊島冠者を唱え地域の有力者として古文書に登場しはじめます。これが、池田氏の祖だとする説もあります。「吾妻鏡」には、その豊島冠者の事が記録され、その故事に基づいた史蹟が旧西国街道沿いにある「弁慶の泉」です。

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<鎌倉時代の頃>
池田氏として古文書に名を現し始めます。1284年(弘安7)6月8日付けの勝尾寺文書に収載「右近将監 藤原政長和与状」に登場しているのが確認されています。また、鎌倉時代には池田氏に関する遺物も少なからず造られ、今も池田市内などに残っています。

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<室町時代頃>
池田充正(政)は、池田家においても中興の祖とでもいうべき人物で、この頃勢力は大いに拡大します。領地の支配と金融業で成功し、中央や貴族から「富貴栄華の家」「富貴無双」などと言われ一世を風靡しました。彼は池田城を拡張充実させて、常備の武士を置いて非常に備えたりと、当時としては進歩的な試みを行ったとも云われます。

<戦国時代初期の頃>
戦国時代の幕開け、応仁の乱勃発の頃のエピソードとして、充正は、野武士千人余りと騎馬十二騎を率いて入京し、注目されます。この時、東軍に組みし、西軍の大内氏から攻撃されて池田城を落とされます。しかし、中央との繋がりを深くしたことから間もなく回復し、以前にも増して勢力を伸長させます。

<戦国時代中期頃>
1508年(永正5)の細川家の内訌を発端にした争いでも、京畿は争乱に巻き込まれ、池田家は細川澄元側に付き、戦となります。対する細川高国勢から激しく攻められ、池田城は落城して当主貞正以下、数十名が切腹となります。しかし、その子久宗自身の活躍と、澄元勢の巻き返しで再び息を盛りかえします。

<細川晴元政権時代>
細川澄元の嫡子晴元が、管領職にあった高国を討ち、悲願の政権樹立を成し遂げました。しかし、磐石の政権とは言い難く、常に闘争が行われ、晴元自身が京都から逃れる事態も度々ありました。池田家は晴元方として活躍し、晴元から重用されます。戦国乱世の中、池田家は着実に勢力を拡げていきました。

<天文の宗教戦争>
細川高国・澄元の争い以降、畿内周辺では武士勢力に加えて政治的な宗教勢力の導員もあり、混乱は更に深まります。和平への糸口が見出せないまま、大きく深く、更に激しく世は乱れ、池田家もその対応に苦慮します。

<細川氏綱政権時代>
細川高国の嫡子氏綱(細川尹賢の実子)が、管領職にあった細川右京大夫晴元に対抗する高国の残党に擁立され、各地を転戦。初期は苦戦していましたが、氏綱は、右京大夫晴元の失策も手伝って、その有力被官であった三好筑前守長慶を味方に得、遂に政権を樹立します。

<三好長慶政権時代>
阿波国の大名三好長慶の台頭で、畿内の混乱は次第に収まり始め、池田家も三好家に加担して活躍します。これに乗じて、池田家も国人として摂津では大きな勢力となります。摂津の雄として各地に転戦、また政治的にも大きな地位を占めるようになります。

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<三好義興政権時代>
三好長慶は、ひとり息子の義興に家督を譲り、自らは修理大夫を任官、社会的地位を上昇させます。また更に、将軍義輝の御相伴衆となって、幕府中枢に入り込んで、三好家(義興)を支えるという、万全の体制で五畿内地域を治めます。しかし、これには近隣の大名の反発も強く、再び大きな戦争となります。更に不運にも義興が22才の若さで病没してしまいます。

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<三好三人衆政権時代>  
類い稀な才能を持った三好長慶は、五畿内を中心とした政治・軍事面で歴史的な活躍を見せました。しかし、後継者が無く、その栄光も一代限りとなってしまいましたが、三好家の繁栄を傾けんと、一族の側近衆が懸命に支えます。三好日向守長逸・同名下野守政勝・石成主税助友通の三人(いわゆる三好三人衆)に、当所はこれに松永弾正少弼久秀を加えた体制で、三好義継を支えるべく結束します。しかし、その結束は崩れ、同族間争いが起こります。

<第十四代将軍足利義栄を支える>
1568(永禄11)年2月8日、朝廷は公卿の山科言継を摂津国高槻の普門寺へ遣わして、足利義栄へ将軍の宣下を行いました。あまり知られていないのですが、池田家は義栄政権誕生に大きく貢献し、それを支えていたのでした。

<信長・義昭連合軍畿内制圧>
戦国時代後期に現れた、日本史上ではあまりにも有名な織田信長が、遂に入京します。更に信長勢は、京都周辺の摂津・河内にも侵攻して、反勢力を制圧します。しかし摂津池田家は三好三人衆方として、信長勢に抗戦。結果、敗北しますが、将軍義昭政権の下摂津守護職を任されて各地に政治・軍事的対応を行います。

<摂津守護となった池田家>
摂津国内を三分する守護とはいえ、守護職を将軍義昭(幕府)から正式に任命されたのは、歴代池田家当主の中では、池田筑後守勝正が最高の権威に就いた事になります。これによって、当然、社会的地位も上昇し、幕府方として多方面に様々な対応を行います。

<池田家内訌>
1570年(元亀元年)6月、これまで摂津では最大級の勢力を誇った池田家に試練が訪れます。三好三人衆に内通した荒木村重や中川清秀らが中心となって内訌が発生。当主池田勝正は一時的に拘束され、追放となります。勝正の重臣は殺されて、池田家内での政権交代が起こります。

<内訌直後の池田家当主>
元亀元年の池田家内訌は、将軍義昭・織田信長政権に激震が走りました。京都の軍事・政治にとって大変重要な位置付けだっため、その後は、一時的に政権崩壊も感じさせる程の窮地に陥ります。そんな中、池田家の政治の中心となる当主は誰に選ばれたのかを検証してみました。

<内訌の真相>
兄弟の心の隙間に付け入ってくる魔者。それは己の中にあるのかもしれません。元亀年間は畿内も大きく揺れ、大きな勢力程、内と外に難しいかじ取りを迫られていました。三好・織田・幕府・本願寺・近隣敵対勢力など虎視眈々と弱点を衝きます。

<池田家同族の戦い>
池田家内訌の結果、勝正は追放、池田家は四人衆体制が昇格し、代表者3名による(三人衆)合議制となります。勝正は幕府・織田方に付き、時には宿敵伊丹氏にも加担して、池田家への返り咲きをかけた戦いを続けます。勝正は原田城を根城に、池田城攻撃に出陣しています。

<池田家の勢力範囲>
郡単位の勢力を持ち、更にその外縁地域にも着々と勢力を広げていた池田家は、戦国大名にも匹敵する程の勢力に成長していました。その勢力は池田勝正の時代に頂点へと達します。

<白井河原の激戦>
池田家内訌後は、三好三人衆方となり、大坂本願寺とも同盟関係となって、京都へ迫ります。元亀2年8月28日、摂津国島上郡の郡付近で、池田勢と和田惟政との大合戦が行われました。この戦いで池田方は高槻城主和田惟政を討ち取り、荒木村重・中川清秀らが更に頭角を現します。これで池田家の版図は一気に東へも広がります。

<両陣営に分かれて活躍する池田衆>
京都を中心とした近畿地方に大きな影響力を持つ三好三人衆とは、摂津池田家も深い関わりを持っていました。三人衆方からの誘いで加担した摂津池田衆。一方、幕府・織田信長方として摂津守護ともなっていた池田勝正を中心とする摂津池田衆。両池田衆は、敵味方に分かれて各々の立場で大きな役割を果たしていました。

<池田家の没落と村重の台頭>
織田家と将軍義昭の関係が険悪になり、次第にその影響が畿内を覆います。旗色を示す重要な決断に誰もが迫られていました。この時、同じ家であってもその選択を異にして、盛衰の分かれた池田家のような国人は多くありました。池田家の意志決定機関として機能していた三人衆体制も、京都の政治に連動して、考えの違いが露呈。再び分裂します。

<村重の活躍と没落>
将軍義昭・織田信長との政争の中で、その去就を巡って悩み、決断をしたものの、その途上では苦悩が続いたようです。荒木村重は、家中の代表者として様々な見通しを立てたようですが、結果として対応しきれずに、没落してしまいます。村重が信長派として活動し、その線上に見たものは、村重とその家中にとって光りではなく、苦痛だったのかもしれません。

<勝正・知正の死>
互いに刃を向けた仲の兄弟ですが、やはり将軍直臣の格を受けた程、門地の高い池田家も、結果として時代の犠牲者たるべく最後を迎えます。外へ向けるべく力を内へ向けてしまったがために、摂津の雄池田家としてのプライドも財産も郎党の命さえも亡くしてしまいます。彼らは何を得て、そして失ったのでしょうか?

<徳川時代になる頃>
戦乱も治まりつつあり、池田家にも束の間の平和が訪れます。この頃の当主光重は「備後守」となり、様々な遺物を池田市内に残しています。しかし、身内の不祥事で、その名誉や地位も水泡に帰してしまいます。一説によるとその一件で光重は駿河の法命寺に蟄居させられたともあります。

<池田家士族とその後>
1614年(慶長19)に大坂付付冬の陣が起こりますが、その時、生駒山上の「暗峠」(くらがりとうげ)に陣を張っていた徳川家康に軍資と酒を献上した池田村の幹部は、後に戦勝祝いとして朱印状と酒名を賜って池田村繁栄の大きな礎を築きました。この頃、池田では武士として残るもの、商人に生業を変える者が別れていったようです。


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