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ページタイトル:摂津池田氏
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三好三人衆政権時代>
三好修理大夫長慶無き後、三好一族の三好日向守長逸・同名下野守政勝、それに加えて石成主税助友通(いわゆる三好三人衆)、松永弾正少弼久秀などが中心となって、三好本家の後継者である義継を支える体制が調えられました。
 しかし、その中の誰も三好長慶程の政治能力を持つ者がおらず、結局のところは、当主三好義継を支えるはずの体制が崩壊して、内紛に至ります。
 この間、摂津国人池田家は、池田筑後守長正が、惣領となって活躍していましたが、1563(永禄6)年2月頃に死亡します。その死因はわかっていませんが、いくつかある系図の記述では、「早世」などとも見られ、「突然」であった事を窺わせるものがあります。
 しかし、当時の史料などから、実際の動きを追ってみると、病気による死亡で、家督相続が行なわれた可能性も考えられます。
 長正が死亡する数年前から、次期後継者としての勝正の、表立った活動が見られ、また、代官職を長期に続けて関係の深かった、春日社領摂津国垂水荘南郷目代の今西家から、特別な祝儀が勝正に贈られるなどしているところを見ると、池田家から公式な公表が関係する人々へ伝えられていた事がわかります。
 さて、永禄6年2月頃に長正が死亡した時、3月1日に細川晴元、8月25日に三好筑前守義興(修理大夫長慶嫡子)、12月20日に細川氏綱が病没している事から、疫病などによるもので池田長正は死亡した可能性もあります。
 池田長正は、三好長慶政権時代の全盛期に池田衆を率いて活躍し、その版図も拡げ、活動の場も広範囲にさせていたようです。池田四人衆の一人である池田紀伊守正秀は、連歌会や堺商人の茶席の記録など広範囲に現れるようになるのも長正の代あたりからです。
 また、三好長慶の軍事行動についての記述でも摂津衆の代表的な国人として池田家が扱われるようになり、摂津国豊嶋郡内外の禁制などの史料が増加するのも長正が当主だった頃からです。
 三好長慶がそうであったように、池田衆も政治・軍事的な処理について適格に対応できる能力を持った人材を多彩に持ち合わせていたからこそ、社会の中で成長していったのではないかと個人的には考えています。
 ちなみに、前記の紀伊守正秀は、長正の死亡をきっかけに、入道となり、「清貧斎(せいとんさい、と読むらしい)」を名乗っているようで、この事を考えると長正との関係は浅く無かったようです。

 そして、池田家の版図を大きく拡大させた長正も、三好長慶の死亡に先立って、永禄6年2月頃に亡くなります。
 そして次の惣領に池田勝正が選ばれる事となりました。この世代交代は比較的速やかに行われ、空白期間は無かったようです。
 他方、三好家では長慶の亡くなる直前に養子を入れて、三好三人衆はこれを求心力として存続を図ります。また、三好三人衆と松永久秀など三好家政中枢は、独自に将軍を立てる事で、京都の直接支配を企図して、現職将軍義輝を殺害します。
 永禄8年5月以降、三好三人衆などは、自ら立てた足利義栄を将軍とすべく準備を進めますが、その考え方の違いから松永久秀と分裂して抗争に発展します。
 同年11月頃、足利義栄から松永久秀討伐を命じられ、三好三人衆は同家督の三好義継と共にこれにあたり、以後、闘争は激化します。
 この三好家の分裂について、しばらくその行方を傍観していた国人衆も多かったようですが、翌年5月頃に池田勝正は、三好三人衆方へ味方する事を決して参戦します。この事もあり松永方はジリジリと前線を後退、勢力範囲を縮小させていき、久秀は本国の大和国での防戦を余儀無くされるまでに劣勢となりました。
 しかし、久秀も負けてばかりではなく、三好三人衆方の緩みを巧みに衝いて、三好家家督の義継を味方に引き入れます。
 松永方の消滅は近いと思われていた時期に、三好家当主が敵対勢力へ身を投じた事は大きな衝撃で、これにより闘争が更に長期化してしまいます。
 永禄10年春、河内・和泉国で戦況不利となった松永久秀は、大和国へ後退したため、三好三人衆と池田勝正などは、同国へ侵攻します。更に同国では筒井順慶が諸豪族を従え、三好三人衆方に合流します。
 結局、久秀は劣勢を挽回する事はできず、次第に本拠の奈良多聞城宿院城など数カ所の拠点を残すのみに追い詰められます。勝正はこの時、奈良油坂の西方寺や東大寺・興福寺周辺などに陣を取って転戦しました。また、池田衆は当番制を組み、多数の兵を長期に渡って動員して、三好三人衆方に協力しています。
 この間、池田勝正は、薬師寺へ宛てて禁制を下したり、一族衆が北葛城郡箸尾(現奈良県北葛城郡広陵町)で知行を得たりして、大和国内でも影響力を拡げるキッカケを得たようです。
 永禄10年10月10日、久秀によって東大寺の陣へ奇襲攻撃を受け、再び大きな被害を出しながらも三好三人衆方は間もなく、松永方をほぼ制圧します。
 翌年2月8日、足利義栄は朝廷から正式に宣下を受けて第十四代の将軍となりました。
 三好三人衆も試行錯誤を繰り返しながら、新たな体制の構築を進め、池田衆もその成立の要として活躍し、畿内政治の激しい動きの中枢部に深く関わって行く事になりました。

池田氏家系図はこちら



写真:三好長慶墓

三好長慶・義継墓

イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

写真:伝勝正墓塔

伝池田勝正墓塔

写真:今西家

今西家

写真:池田長正書状

池田長正書状

イメージ:池田四人衆

池田四人衆

写真:箸尾城跡

箸尾城跡

写真:奈良草鞋山西方寺

奈良西方寺

写真:多聞山城跡

奈良多聞城跡

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