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<摂津守護となった池田家>
足利義昭を奉じて上洛した織田信長勢に激しく抵抗し、被害も出させた池田勝正でしたが、その小さくない勢力(宣教師ルイスフロイスの記した「日本史」では、1564(永禄7)年頃の事として、「池田家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた」などとある。)は、新政権を支えるために編入されました。
1568(永禄11)年10月18日、義昭は朝廷により宣下を受けて、正式に第十五代室町将軍へ就任します。これを受けて、義昭政権を支える勢力として、京都を中心とする五畿内地域の再編成が行われました。摂津国では、守護職として、義昭側近の和田伊賀守惟政、摂津国人で松永久秀被官(与力的立場?)だった伊丹兵庫助忠親、そして旧三好三人衆勢力だった池田筑後守勝正が任されます。
摂津国内を三分する守護とはいえ、守護職を将軍(幕府)から正式に任命されたのは、歴代池田家当主の中では、筑後守勝正が最高の権威に就いた事になります。これによって、当然、社会的地位も上昇する事から池田城の構成も変化したと考えられます。勝正(池田家)の役割も拡大し、抱える人数も自然と増えます。また、設備なども必要になりますし、池田城は守護所としての防禦機能も整えなければならないでしょう。
さて、そんな誕生したばかりの将軍義昭政権の浸透と安定を担って、勝正を当主とする池田衆は各地で政治・軍事的対応を行います。
1569(永禄12)年正月付けで、勝正は播磨国鶴林寺などへ宛てて禁制を下して、幕府方としての活動を開始しています。また、同年1月5日には山城国桂川で、反幕府勢力となった三好三人衆勢と交戦し、勝正は将軍義昭を守っています。更に同年8月、但馬守護山名祐豊討伐(此隅城)、続いて10月、播磨国へ入って備前国人浦上遠江守宗景方乙(おと)城(現兵庫県たつの市西町佐江)などを攻撃しているようです。
そして、翌1570(永禄13・元亀元)年4月、越前守護朝倉義景を討伐するため、幕府としての公的な軍事行動となり、これに池田勝正は、幕府軍として三千名を率いて従軍し、構成の中心的要素となっていました。
慎重に諸勢力の動向を見ながら進みましたが、結局、噂通りに浅井長政が織田信長に背いた事から、朝倉義景討伐は全軍退却となりました。この時、決死の退却戦「金ヶ崎の退き口」に池田勝正は、「殿軍」として加わっています。
一般的には信長衆木下(羽柴)藤吉郎秀吉衆による後退戦が知られているのですが、池田勝正・明智光秀が幕府として秀吉衆の側面を支えていました。
当時の史料から、この時の事を伺えるものがあります。幕府奉行衆一色式部少輔藤長が、5月4日付けで、丹波国人波多野右衛門大夫秀治へ音信したものの中に、池田筑後守勝正の事について触れられています。当時の史料でも確かに「金崎ニ木藤(木下藤吉郎秀吉)・明十(明智十兵衛尉光秀)・池筑(池田筑後守勝正)其外被残置、」とあり、「金ヶ崎の退き口」で池田勝正が主要な勢力であった事実が複数の史料から確認できます。
「金ヶ崎の退き口」については、伝説が定説化しており、秀吉の超人的活躍が、現代の私達にも知るところとなっています。
しかし、当時の史料を広範に見渡して、紡いでいくと、織田信長の判断と計画による卓越した行動を改めて知る事ができます。
元亀元年4月の越前国朝倉攻めの時、信長は、妹の「市」から同盟していたはずの浅井氏の離反を知らされて、信長の咄嗟の判断から適切な対応で、大事に至らずに済んだとの物語が多くの人々の知るところとなっています。
しかしながら、当時の史料を見ていくと、信長が越前朝倉氏を攻める前に、浅井氏が信長方から離反したとの噂が公然となっていました。また、信長は、これを確かめるかのように用意周到に出陣しており、有事のための控えの軍勢も京都周辺に配置しています。
ですので、京都への避難通路となった近江国朽木も、予め用意されていた退路のひとつだったようです。ちなみに朽木氏は、永年、幕府の有力被官ですから、信長が「一か八か」の懸けをしてその領内に入ったわけではなく、琵琶湖の西側にある朽木は退路として安全確実な地域だったのです。
少し話しは戻りますが、天筒・金ヶ崎城を攻める時も信長は、若狭国境に近い、越前国敦賀郡の花城山城(敦賀市櫛川)に陣を取って督戦していたようです。
4月26日になって天筒・金ヶ崎城は落城し、その南の引壇城も同じく開城となり、ひとまず緊張は解けました。
信長はその時点で始めて、妙顕寺(敦賀市元町)に本営を移して木ノ芽峠から先の予定や諸事の調整を行ったようです。
もっとも、この軍事行動には、日野や飛鳥井などの公家が同行しており、信長はこれらの人々を守らなければならないために、慎重に行動するのは自然な事ですが、それは軍事の一部であり、権威という武器を利用してもいたからです。
さて、日本海側の権益獲得も兼ねたこの越前朝倉攻めに摂津池田家がなぜ従軍していたかを少し考えてみたいと思います。
永禄11年10月に足利義昭が第15代将軍となり、新政権が誕生した時、主となってこれを支えたのは、あまりにも有名な織田信長でしたが、信長方は鉄砲の保有数やその運用ノウハウにおいて、五畿内の先進地域を超えるものではなかったようです。
そのため、近江国人浅井氏の離反が事実であった場合には、後退戦が予想されました。また、信長方が勝っている場合でも要所では、敵方の籠城戦が予想され、そのどちらにも鉄砲は非常に有効な武器でした。
この事から、当時の摂津・河内・和泉国内で最大級の国人であった池田家に主力勢力を任されたのだと考えられます。
そして信長の方針から、浅井・朝倉氏などの動向という、不確定要素が確定し、更にその先の目標が見えてきたのでした。しかしそれは、信長が想定したより多くの敵でもありました。
近江国人浅井氏が、敵対勢力である事が確認できると、予定通り速やかに軍勢の撤退を命じ、信長は、京都へ戻りました。信長は、備えとして用意していた兵や各地の勢力と連絡を取って、反幕府勢力の動きを注意深く観察していましたが、性急な動きは無いと見て、大規模な反撃を迅速に行うために岐阜へ戻ります。
そして、勝正が、大多数の軍勢を引き連れて朝倉義景討伐のために摂津国池田を留守にしていた間に、三好三人衆による調略が、摂津池田家中に行われていました。