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<戦国時代中期頃>
永正年間から日本全土が統一され戦国時代が終わる頃まで、何度も池田は戦乱に巻き込まれますが、その発端となった1508年(永正5)5月、他の多くの摂津国人が細川高国(たかくに)の側についたにも関わらず、池田家は細川澄元(すみもと)側に付き抗戦しました。
5月初旬から高国が差し向けた、細川尹賢の大軍に城を包囲され攻撃されます。池田城内からも討って出て激しい戦いが行われました。10日、池田一族の池田遠江守正盛投降、次いで外堀(恵那堀)を埋められたため、城主池田筑後守貞正は降伏の決意を固めました。貞正は事前に妻と息子などを数名の家臣と供に落ち延びさせた後、城を自焼して大広寺に駆け込み、そこで、貞正以下一族二十余人が自刃、足軽七十余人も後を追いました。
ちなみにその貞正切腹の時の敷板と伝わる「血天井」が大広寺に伝わっています。
その後、池田城は投降した池田遠江守一族が中心となって、高国方として重要な役割を担いますが、落ち延びた貞正系の池田家とは一線を画していたようです。
高国方はこの後、10年間、比較的安定した政権を維持しますが、澄元方の多い西摂津では度々戦いをしており、池田城を本営として各地に出陣していました。また、高国方池田家もそれに従軍し、転戦していたようです。
そんな中、落ち延びていた貞正の息子は三郎五郎と名乗り、有馬郡の下田中城に身を隠して、澄元方池田家として、来るべき時を待っていました。
間もなく池田氏が属する澄元以下は攻勢に転じ、下田中城の三郎五郎(久宗)が同時に挙兵します。次第に澄元方が有利となり、対する総大将細川高国は池田城あたり迄後退して抗戦しますが、澄元方の攻撃に耐えられず壊走してしまいます。この時三郎五郎本人の活躍もあって再びかつての居城、池田城を回復します。
また更に、高国本人の死(大物崩れ)もあって高国政権は崩壊します。城を回復した後も高国残党などからの攻撃が数度ありましたが、三郎五郎はその都度撃退します。
その一連の功績で足利家将軍より「直勤御家人」の待遇を受けます。ここに摂津池田氏は、名実共に畿内近隣と中央に知られた存在となります。