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<鎌倉時代の頃>
時を経て、流通の発達や様々な必要に駆られて池田氏は、次第にその地から北へ移っていったのではないかと考えられていますが、詳しい事はまだ判っていません。いわゆる国人・国衆(村落単位ではなく、郡単位などに影響力を持つ有力者)に成長していく豪族(土豪)は、大きく分けて2種類あるようです。
タイプ(1)としては、鎌倉時代頃に、その土地の所有者から管理の役目でやってきた「地頭」のような者とか、中央政権などから土地をもらってやってきた御家人などがあります。ですので、このタイプの武士はその経緯から、領民に対して支配的な態度で終始臨んでいたようです。
タイプ(2)としては、その土地の有力者が次第に成長したもので、このタイプは領民に対して支配的ではなく、どちらかというと地域の代弁者的なところがあったようです。
池田氏の場合はどちらかというと、これまたはっきりしないのですが、タイプ(1)から次第に成長し、タイプ(2)になった感じがあるように思います。言い伝え的なところでタイプ(1)の可能性はあるのですが、史料としてはタイプ(2)のものが残っています。池田の町を守る武力集団としての存在も考えられています。
池田氏は、平安時代の終わり頃、豊島冠者として池田市域南部の西国街道沿いに居たものが、鎌倉時代頃から次第に力をつけてきたと考えられます。それは池田市南部に残る池田氏の歴史遺物からも推定されます。常福寺、釈迦院、五社神社などに鎌倉時代の文化財が残されています。
最近の調査によると、史料上で池田氏が登場するもので最も古いものは「勝尾寺文書」収載(1284年6月8日付け)の「右近将監 藤原政長和与状」のようです。池田右近将監政長が勝尾寺領の沙汰申し渡しの中で登場しています。その後池田氏は、北摂に関する文書に度々登場し、文献では1430年頃から急速に勢力を拡大しているようです。
※池田氏家系図はこちら
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