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<細川氏綱政権時代>
細川次郎氏綱は、管領細川右京大夫晴元の失策も手伝って、その有力被官であった三好筑前守長慶を味方に得ました。右京大夫晴元の失策とは、「細川晴元政権時代」の項をご覧頂くとして、次郎氏綱は、筑前守長慶を味方とした事で、大きな勢いを得ます。
1549(天文18)年6月24日、摂津国江口にて、側近である三好宗三政長など多数を失う敗北を喫し、右京大夫晴元方は総崩れとなります。間もなく晴元は京都からも落ち延び、以後は亡命政権となりました。
さて、次郎氏綱は、晴元から見て、前管領の細川右京大夫高国の子(高国弟細川尹賢の子)で、父高国が就いていた管領職の奪還を目指していました。この動きに、細川晴元へ対抗する勢力が加担、擁立して、地域勢力となっていました。
それは、次郎氏綱が決起した1542(天文11)年12月13日に遡ります。この頃は、取るに足りない非常に小さな動きでしたが、次郎氏綱は次第に支持を得るようになり、時を経て、成長していきました。
当初、近畿地域の南部(和泉・紀伊国の一部)での活動に限られていましたが、河内守護家畠山氏やその守護代である遊佐氏の協力も得られるようになり、現職の管領細川晴元を圧迫する程の勢力となりました。
以下、「細川晴元政権時代」の項と重複する部分もありますが、簡単にその経緯を見てみます。
1542(天文11)12月の挙兵後、次郎氏綱は、和泉国槙尾寺を拠点として活動し、攻勢のため、度々五畿内地域に出兵します。
1544(天文13)年2月頃からは、河内守護畠山尾張守稙長の協力を得る事となり、勢いを増します。更に同年7月には大和国民の鷹山主殿助弘頼が、尾張守稙長の被官となり、大和国でも影響力が拡がっていました。
同年8月3日、右京大夫晴元方三好越前守政長・同名孫次郎長慶などの城を攻撃のため、摂津国江口へ出陣する程になっていました。翌年4月頃になると、丹波国や山城国南部でも次郎氏綱勢が活動し始め、徐々に京都に近づいていました。
しかし、1545(天文14)年5月15日、畠山稙長が死亡し、一時的に次郎氏綱は求心力を失いました。右京大夫晴元は、この機会を逃さず攻勢に出ます。晴元は先ず、山城国南部の次郎氏綱勢を鎮圧します。この時池田筑後守信正も晴元方として従軍していました。
不安定だった晴元政権に希望の光が差し込んだように見えたのですが、公平に欠く政治が目立ち始めており、陰りが見え始めていた頃でもありました。
1546(天文15)9月3日、右京大夫晴元から池田信正など国人衆が離れる事を表明します。また、将軍義晴さえも次郎氏綱へ加担する姿勢を示していました。しかし、後の時代を知る者から見れば、これは時期が早すぎ、状況が不安定でした。そして晴元は、直ちにこれらの鎮圧にあたり、大挙して池田城などを攻撃します。
1547(天文16)年2月20日、この頃には池田城の支城的役割を持ち、協働体制にもあったらしい摂津国豊嶋郡原田城が、晴元方に落されます。続いて3月22日に次郎氏綱方となった三宅城が落され、6月25日、芥川山城が落ちます。これを受けて同日、池田信正が晴元に降伏。この信正の降伏を以って摂津国内の次郎氏綱方はほぼ鎮圧されていました。
同年7月21日、河内国舎利寺付近で、晴元・氏綱方の決戦が行われ、三好長慶などの活躍で晴元方が大勝して、雌雄が決まりました。更に晴元方は河内国内へ侵攻し、氏綱勢を追討を行いました。これで氏綱勢は、再び後退してしまいます。
しかし、軍事的には優勢でも、肝心の政治が安定せず、晴元政権は体制の維持に明らかな綻びが生じていました。池田信正(宗田)の切腹下知とその処置を巡って、もはや回復できない程に信用を失い、晴元は、有力被官だった三好長慶や各国の国人衆の離反を招きました。
1548(天文17)年10月から、次郎氏綱は再び勢いを得て、晴元方と大規模な交戦を始めました。翌年6月24日、次郎氏綱方三好長慶勢が、右京大夫晴元重臣の三好(宗三)政長を摂津国江口で討ち、晴元方は総崩れとなりました。晴元は僅かな供を連れて京都へ戻りますが、間もなく、近江国へ落ち延びます。
同年7月4日、次郎氏綱は三好長慶を伴って入京を果たし、氏綱政権の始動となりました。しかしながら、五畿内とその周辺には晴元方へ加担する有力者も少なく無く、それから数年間は、それらの鎮圧に追われます。
この間、三好長慶は時の政権を支える有力者に成長し、その行動が、政権の命脈に直結する程になっていました。
摂津池田家もまた、そのミニチュア版のような関係を長慶との間に持ち、長慶の政治を左右するとはいわないまでも、無視できない関係にまで持ち込める大きな勢力となっていました。
地域の有力者など国人衆は、管領の座を争う者同士に加担する際、より高く評価をしてくれる側につき、その中で様々な権利を獲得していったようです。
そんな大きな枠の中で、拡大する池田家の権益のより多くの獲得と、その保証・保護ができる人物が、一族の惣(総)領として推され、選出されるといった形態だったようです。これは、池田家が武家としての自立過程で、そのように変化していったようです。
信正の死後、池田家代表者は数年間不在のようでしたが、次第に家中の意見もまとまり、池田右兵衛尉長正に決まったようです。
ちなみに史料上では、筑後守信正(宗田)の後継を「太松」とした、と見えますが、彼が幼少であったために右兵衛尉長正は、この後見も兼ねての暫定措置だったのかもしれません。しかし、右兵衛尉長正も「筑後守」の座に就き、池田家の正式な惣領となっていますので、彼は家中からその力量を認められたようです。
さて、中央政治に目を向けると、1552(天文21)3月11日、細川氏綱は念願の「右京大夫」を叙任され、管領職の座に就き、正式に氏綱政権が発足します。
しかし、この頃には三好長慶の実力が増し、もはや彼を抜きにしては政権の維持ができない重要人物となっていました。また、社会的身分上はその当時の秩序を越える事はできないという矛盾を感じながらも、実質上は、長慶の裁量を無視する事のできない政治体制となっていました。長慶の力量により、氏綱政権が維持されていたという側面が強かったようです。
そんな氏綱政権は、右京大夫晴元方勢力のレジスタンス活動への対応に追われる日々が続きます。晴元方は、丹波・近江国方面からの侵入に加え、要人の暗殺や調略といった工作、将軍義輝の取り込みといった政治活動を行って、氏綱政権の崩壊を狙っていました。
こういった状況の中で、筑前守長慶は「一所懸命」に役目を務めた結果として、更なる実力と利益を得て、実質上の統治者のようになっていたようです。五畿内などの国人や有力者は、政治体制が変化しつつあった事もあり、筑前守長慶に直接従うようになります。
1563(永禄6)12月20日、右京大夫氏綱は、歴史上では最後の管領となって没し、また、彼の死によって室町幕府の伝統的な摂津守護制度は一時的に廃絶したと考えられています。
ちょっと脱線しますが、この年は、3月1日に細川晴元が病没し、2月に筑前守長正が、8月25日に三好筑前守義興(長慶嫡子)が没しています。疫病などが流行していたのかもしれませんが、晴元と氏綱は奇しくも同じ年に死亡しています。
その間、1558(永禄元)年から1562(永禄5)年までは、三好長慶の全盛時代となり、それまでの地道な活動を一気に開花させました。また、長慶は徐々に管領職の身分を超えるべく、直に将軍義輝と接触するようになり、右京大夫氏綱の立場は中に浮いたカタチとし、形骸化させてしまいました。
氏綱が中央政治に登場する頃には、前時代とは違う政治権力闘争となっており、氏綱は政権を樹立したとはいえ、経緯を見るとその初めから、実力者に成長した三好長慶の影響下にあったように見えます。