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<はじめに>
池田氏の出自は未だ謎の部分が多くはっきりしていないのですが、一説には楠木正行(まさつら)の遺腹の子を摂津国の住人であった池田氏が貰い受け、その後池田の地で勢力を持つようになったという説や、上野国(こうずけのくに)那波郡池田郷の出身者が摂津国池田で定着したという説も有ります。諸説定まらずその出自についていまのところ、確証に至る資料が少なく判断し難いようです。これからの研究に期待したいと思います。
<平安時代末期頃>
池田氏の起源の一説(池田町史)には、池田氏の祖は遠く源家の長者に遡り、紀長谷雄より、維実、維望、維貞に及び奉貞に至り初めて豊島冠者を唱えました。そしてこの池田蔵人紀奉貞という人物(流れでは、その前もそうですが)が、池田城主の祖にあたるようだとあります。
この池田蔵人奉貞を豊島冠者と呼んで旧豊島村西市場地域に豪壮な濠を廻らした邸宅を構えて居住していたようです。豊島冠者については、池田市豊島南にある「弁慶の泉」の由来にも書かれています。
1185年(元暦2)3月24日、長門国壇の浦の合戦で平家が滅んだ頃から源頼朝と弟義経の関係が急に悪くなり、次第に追い詰められた義経は挙兵するに至ります。義経は西海下向を計画し、尼崎方面から船を使うため西国街道を西へ向かいますが、その前途を摂津源氏多田蔵人大夫行綱、豊島冠者等が遮ります。義経はこれを駆け敗って脱出しましたが、義経の軍勢も多くが離散してしまい、残りも僅かになってしまったとあります。この時、戦いで疲れた義経の喉を潤したのが「弁慶の泉」の湧水であったという事です。
これらは、当時の幕府の記録である「吾妻鏡」を元にした伝承のようです。
このように、池田氏の前身と考えられる豪族は最初、古くから開けていた池田市南部の西国街道沿いに居て、威勢を張っていたようです。