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<三好長慶政権時代>
室町将軍を補佐する管領職には「三管領」といわれる世襲が常態化し、これには細川・畠山・斯波の三家が就いていました。この内で特に細川家が、日常的に将軍と直接関わっていました。
大永年間頃から細川高国と同名晴元が、管領の座を巡って争い、晴元に同じ出身国の三好筑前守元長が支援しました。筑前守元長の個人的な才能もあり、晴元方を優位に導きました。しかし、間もなく晴元と元長が不和となり、元長は滅ぼされてしまいます。そんな経緯を持ちながらも三好長慶(筑前守元長嫡子)は、再び晴元の下で活躍し、手柄を立てて行きます。
世が天文から弘治・永禄と移る中で、管領の座も細川晴元から同名氏綱へと変わりました。その30年程の間に三好長慶は、多くの人々が認める有能な人物に成長していきました。彼は京都を中心とした、九ヶ国を治めるまでになります。
三好長慶は、細川晴元の下で活動している間に様々な経験を積んで成長し、晴元政権内では有力な武将となります。そして、晴元の次に管領の座に就いた細川氏綱の代に至っては、実質上、長慶がその政治生命を左右する存在となっていました。
1548(天文17)年8月頃に三好(筑前守)長慶は、遂に細川右京大夫晴元へ失政を糾す諫言を行います。しかし、これは(も)聞き入れられる事がなかった事から、筑前守長慶は、右京大夫晴元との決別を覚悟し、永年不和の続いた同族の三好(宗三)政長・同名右衛門大夫政勝父子との関係精算も実行に移しました。
同年10月、筑前守長慶などを中心として、摂津・河内・山城・丹波・播磨国など多数の国人・有力者が、細川次郎氏綱方へ加担する事を明らかにします。これにより一転、右京大夫晴元は守勢に立たされます。
1549(天文18)年6月24日、筑前守長慶は、右京大夫晴元の側近である三好(宗三)政長を初めとした多数を摂津国江口で討ち、晴元政権もこれによりあっけなく崩壊となってしまいました。また、河内守護家の一族で、同族内で対立し、右京大夫晴元へ加担したりしていた畠山在氏・同名尚誠父子などの勢力も中枢の崩壊で求心力を失って、弱体化の道を辿る事となったようです。
その後もしばらく右京大夫晴元方の抵抗が各所で続きましたが、晴元へ加担していた将軍義輝との和睦を契機に、ある程度沈静化させる事に成功して、1552(天文21)年3月11日、氏綱は遂に「右京大夫」を叙任されて、管領職の座に就きます。この日を以って、正式に氏綱政権を始動させる事となりました。
しかし、筑前守長慶の功労が多大にのぼるにも関わらず、伝統的権威がその社会的身分を正当評価できない矛盾を痛感した長慶は、その最上位である将軍に直接関わる事を企図します。
筑前守長慶は、その事を視野に入れて、着実に政治環境を調えます。1560(永禄3)1月18日に長慶は、将軍義輝から御相伴衆という地位を得て、「修理大夫」を叙任。長慶は、管領職と並ぶ社会的地位を得ます。
そして同年には、幕府の名の下に河内討伐を行なって、河内国の守護である畠山氏を追放します。同時に、大和国へも侵攻して、三好家の支配を強めます。
しかし、長慶は畠山一族やその重臣達を殺害はしていません。178年に及ぶ河内守護家の歴史には、長慶といえども恐れさせたのかもしれません。
同4年、三好長慶流の家督となった義興は、将軍義輝を自邸に招いてもてなし、内外に幕府との一体感を喧伝し、更なる名声を高める事に腐心しています。また、将軍義輝から、三好家に桐紋使用の許しも得ています。
この動きを見て、それまで争い続けて来た細川晴元を摂津国の普門寺に迎え入れ(軟禁とも捉えられている)て、自らは、管領である細川氏綱と次期管領の六郎(昭元)を政権内に抱えて、正当で公的な地位を独占しようとします。
しかし、こいった強引な政策が、世間の恨みを買って不運を呼び込んだのか、この後は三好家の斜陽の時代を迎えます。
永禄4年の夏頃から反三好勢力が各地で蜂起し、これが連携していたために、この制圧に手こずって長期戦となってしまいます。この間に長慶の実の弟十河民部大輔一存、同じく三好豊前守実休義賢を失います。
また、河内守護家の畠山氏内紛に三好長慶が幕府方として公的な立場で介入しました。守護である畠山尾張守高政とその守護代安見美作守宗房の内紛に長慶は、幕府として公的に畠山氏の軍事的援助を行うという体裁を取っていたようですが、次第に長慶のその思惑が明確になると、今度は畠山氏と安見氏が和解して同盟関係となり、長慶に抵抗する構えを見せます。
そして、この時の軍事介入で、三好勢として松永久秀が1559年(永禄2)8月に大和国へ侵攻します。間もなく、久秀は信貴山城へ入り、以後ここを拠点として大和支配の活動を続けますが、同時に河内国への備えとしての役割もありました。
しかし、畠山氏勢力制圧のメドが立ちはじめた永禄6年8月25日、長慶の有能な実弟の相次ぐ他界に続いて今度は、ひとり息子の義興が病死してしまいます。この年、細川晴元・同名氏綱、そして池田筑後守長正も死亡しています。
このように重要人物を次々と亡くす現実に直面すると、長慶も一つの時代の終わりを感じたのかもしれません。
更に同7年5月7日、後継者問題でもめたのか、長慶は、実の弟安宅摂津守冬康と不和となり、殺害します。
それから、間もなくの7月4日、修理大夫長慶は失意の内に死亡します。河内国飯盛山の城中で死亡しました。