ページナビゲーション:呉江舎
ページナビゲーション:呉江舎
ボタン:ホームへ ボタン:わが街池田 ボタン:五月山 ボタン:池田の観光 ボタン:池田の特産 ボタン:池田の町並
ボタン:ぶらっとええとこ ボタン:企画予定コンテンツ ボタン:アクセス池田 ボタン:リンク ボタン:訪問者筆記帳
ボタン:池田城
ボタン:摂津池田氏
ボタン:幕末の池田
ボタン:池田の歴史
ボタン:勝正を追え!
ボタン:信長の野望
ボタン:カテゴリートップへ
バナー:親愛なる池田市様
ページタイトル:幕末の池田
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

池田村は1595〜1640年まで池田村単独の支配地域(幕府直轄の天領)でしたが、長期安定政権の下で一般の消費物資の生産が向上し、製品生産や流通の構造が複雑になっていきます。また、規模も大きくなり日本全体の総生産高も年々上昇します。そのような時代背景から、地域自治の規模も大きくなっていきます。それは池田郷においても同様で、村が複雑となって池田村単独自治の時の庄屋1人、年寄り2人という体制では困難をきたすようになりました。次第に行政区域は分割されていきます。当時、その区域と権利は「株」という単位でまとめられていました。池田村は1640年(正保年間)以降2株、3株と次第に分けられて幕末の頃には5株になります。構成は、20数町村を5株の行政区域に分けてありました。
 これは、生産高が増える毎に検地を行なって、余剰ができた所に新しい利権が入り込むために株が増えていきました。徳川幕府領には代官が置かれて引き続き統治していましたが、1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」で度々登場した、一橋家や公家の九条家などが阪急池田駅より北側の旧市街地域を、また麻田藩、飯野藩などは前者より南の池田市域(石橋付近など)を複雑に分割し、統治していました。例えば池田中央部の旧市街地域では、上池田村・西池田村は天領でありながら、九条家も同地に統治権(徴税や治安)を持っているという記載があります。当時、同じ通りの隣の家が九条家領で向いが天領だという事が珍しくなかったようです。
 新しく区割りをする際には、被権者は「おいしい場所」を求める為に、とても複雑な線引きになったようです。このため、通達が一気に伝わらず行政面ではかなり困難をきたしていたようです。徳川幕府存続中に数回行政改革が行われますが、それでも事態は好転せず、幕末には時代の要請に応えらなくなり行政面、経済面で諸事支障をきたすようになります。なにか混沌とした現在の状況を150年前にも見るような思いがします。
 幕末の社会状況として全国的に有産・無産、産業構造等の新旧交替が起きており、持てるものと持たざる者の差が大きくなっていました。そこにペリー提督率いるアメリカ太平洋艦隊が開国を求めて、東京湾に現れます。海外からの軍事的圧力や既に起こっていた海外での植民地競争の動きが情報として、日本国内に伝わります。世界を見れば、もはやリーダーは徳川家だけではないという漠然とした意識が民衆の中にも芽生え始めます。全国的な思想の変化は池田に於ても同様だったようです。
 当時の池田の町に目を向けると酒造業に代わって市場町としての経済力を背景に金融業が再び力を持ち始めます。多くの街道を交差させる池田はこの点有利な立場にあり、金融業へのシフトは他の在郷町より顕著だったようです。
 1829年頃(天保年間)から不作の年が続き、特に1833年(天保4)は西日本で更に平年の半分以下の収穫で、東北地方では収穫皆無という悲惨な年となります。その後(1834〜1836年)も天候不順で大凶作となります。人々の生活は困窮を極めて餓死した我が子さえ食料にしたという悲惨な記録まで残っています。そんな状況の中、新将軍の宣下の行事に必要と大量の米が大坂奉行所の指揮の下、大坂から江戸に送られていました。
 同じ頃、全国各地で、地域的な村方騒動から発展して国訴(郡単位数十カ村、あるいは数百カ村で同時期におこされる騒動)が多発していました。これは、強い既得権益を帯びた経済に反発したもので特権商人、藩(よく中興の祖と言われる藩主は、特権で市場の自由性から見ればかなり強引な事をやっていました)や幕府の権力に経済活動が疎外されていることに生産者は気付き始めていたのです。特に大阪府域では、1823年(文政6)摂津・河内で1,007カ村が参加する綿の売買をめぐる法廷闘争から始まり、以降も1827年(文政10)絞り油についての国訟、1855年(安政2)摂河1,086カ村参加の絞り油についての国訴、1865年(慶応元)摂河1,236カ村参加の「菜種・油・油粕」についての国訴などが上げられます。そんな幕府への反感が募りつつある中、有名な大塩平八郎の乱が起こります。
 1837年(天保8)2月19日、午前8時「救民」の旗を掲げて大塩平八郎は大坂で決起します。有名な「大塩の乱」が起こります。この乱は僅か八時間で鎮圧されますが、一身を犠牲にして時の絶対権力に対して闘った彼を民衆は賞賛します。また、乱では火をつけて回ったために、大坂市街の1/5が焼失したと言われています。にも関わらず、あまり大塩を悪く言う者はなかったと伝わっています。
 その後大塩の遺志に共鳴した騒動が日本各地で起きます。摂津では能勢一揆(騒動)と言われる一揆が起こります。指導者山田大助等数人は、郷里である能勢地方に戻り一揆の気勢を上げます。道すがら、廻状を下しながら行動して池田村にも能勢騒動に呼応する旨伝わります。
 池田は実際のところ、商家が軒を連ねる在郷町で農業人口が大変少なく、飯米は田村に大きく依存して飢餓状態に陥っている程でした。池田村の深刻な米不足は総人口5239名の内、84パーセントにあたる4418名が「飢人」であったとの記録があります。他の多くの地域と同じように池田も厳しい状況にありました。
 さて、そんな時、能勢では大きな事件が起きつつありました。能勢騒動です。
 山田大助(50才)は7月朔日(1日)、父源六大病のの報を受けて、郷里に帰るという理由で大坂斎藤町絹屋卯兵衛の借家を出ました。同じ頃、今井藤蔵(45才)、研屋佐藤四郎右衛門(40才)の2人も能勢妙見宮詣と称して大助に合流しました。
 能勢へ向かう道中池田から「あめ新」という者と合流し4名(最終的には5名の首謀者が居たとされている)となり道中を急ぎました。
 このあめ新という人物は、あめや平三郎の倅で池田に住んでいた馬借年寄飴屋瀬平一族とされています。池田村から一揆の重要人物が出ていた事になります。
 一揆の日程は7月2日、能勢の岐尼の宮に集まり、翌3日は村々から人足を集めて4日、西へ向かって出発しました。
 彼等は、道々檄文を廻状して歩いた(先触れ)ので、事は順調に運んだようです。檄文の内容は「飢饉を乗り越える為には、全国の総現有米量を調べた上で、全人口に平等に配分し、金銭の賃借をご破算にする徳政を天皇から各領主へ命令して欲しい。これを願い出る為に皆々集まれ」というもので、この当時(時期としては)としては珍しく問題解決の視点が領主を飛び越して、天皇に辿り着いている事が注目されています。
 山田大助一行は、この志を基に京都へ向かおうとしていましたが、先の大塩平八郎の乱で警戒していた近隣諸藩に察知されてしまいます。迅速な諸藩の対応で、能勢から京都に向かう道は塞がれてしまいます。これが東の京都へ向かうはずの一揆勢が西へ向かった理由でした。
 一方、7月4日の早朝池田では、7月3日の木部村庄屋下村五右衛門からの書状で不穏な動きを知った大坂奉行所の捕手が到着していました。奉行所の捕手は、池田村上池田の大和屋友右衛門方にあって、池田村庄屋六兵衛、年寄久右衛門に人足60人を出すよう申し付けました。

 そしてまた場面が変わります。岐尼の宮を出た一揆勢は大助の生家のある山田村を経て、杉生の分岐に達した所でどちらに進むか迷ったようです。一行はそこで暫し昼食を取った後、南へ進みます。能勢郡から川辺郡佐曽利村に差しかかる頃には、総勢1,300名に達していました。
 この夜、野営中の万正寺で強い地震があり、不安に駆られた一揆に参加中の村民700名程が逃亡してしまいました。また、この時に火の手が上がり、囲んでいた篠山藩兵はこれを戦火と勘違いして逃げ出した者もあるようです。
 直ぐに一揆勢は、人数が減った分の補充を行い、附近の村々から600人程を徴発して体勢を立て直しました。
 翌5日の朝、一揆勢は万正寺を出て再び西へ進み始め三田市木器(こうずき)の油屋を目指しました。しかし、それまで囲んでいた鎮圧軍は囲みを狭め始め、やむを得ず一揆勢が興福寺に入り篭城した所を更に鎮圧軍が包囲しました。大坂奉行所与力同心約500名、大坂代官根本善左衛門の手勢約400名に囲まれた一揆勢は成す術もなく、人足の大部分は四散してしまい、首謀者達は鉄砲で討取られてしまいました。山田大助は、興福寺横の方丈の間で鉄砲自殺を図りました。
 また、残った者にもその日の内に奉行所から沙汰があり、遠島1名、中追放3名他を出す仕置きがされました。
 能勢騒動はこのように、決起から3日という短期間で終わりましたが、この一揆は大塩平八郎に影響を受けた山田大助らが首謀者となり騒動を起こした事や尊王の意志を廻文に記した事など、それまでとは違う性質がその動機に見られる点が注目されています。
 また、池田の住人が参加したいたり、通過点ではありますが、地域としての関わりもあります。
 そして、時代は更に下った池田での出来事です。幕末、日本中が混沌とする中、池田村に儒学者広瀬 旭荘(佐久間像山や吉田松陰等と交友を結んでいた)が入り、有力者の一人山川正宣を訪ねて時の情勢について議論したようです。彼らは反幕的攘夷論で一致して、特に正宣は、「時下においては速やかに外威を絶って衆心の向かう所に従うべきである」と語ったそうです。正宣は池田村取締役に指定された人物で、酒造家大和屋の当主でもありました。このような記録からも幕末の池田は、豪商・知識人を中心として尊王攘夷論に大きく傾倒していた事が伺えます。
 時代はまた更に下って、1866年(慶應2)、大坂には第二次幕長戦争のため将軍家茂や諸藩の武士達が駐屯していました。幕府が海外への門戸(港)を日本各地で開いた事から物価上昇をひき起こしていました。更に幕府軍の長期滞在で、京畿では米価が高騰していました。
 この頃物価は、1865年(慶應元)4月に1升200文だった白米が、翌年5月には800文となっていました。おまけに、御用金の取り立て、人足の徴発が続いて民衆の負担は大変重いものになっていました。
 そんな庶民には苦しい時代の1866年(慶應2)5月1日、摂津西宮(現西宮市)で女房衆15人程が米屋に米を安く売ってくれるよう頼んで回るという事がキッカケで、3日にはそれが男女2000人程に膨らむ大きな騒ぎとなりました。この時、米屋に押しかけた人々に武士が切り掛かるという血を見る結果となってしまいました。
 この米の安売り要求は、御影、住吉、神戸、灘の村々に飛び火していき、8日の夜には兵庫津(現神戸市)でついに打ち壊しが行われました。それが10日には池田に達する事になります。
 1866年(慶應2)5月10日、雨模様の中池田の南にあった天神の森に三々五々、民衆が集まりました。民衆は、夕方頃から米屋の多い新町へ大挙して押しかけました。打ち壊しに恐れをなした米屋は固く表戸を閉じていましたが、民衆は米屋の庇に丸太を二本組み、もたせかけかけ、それに石を吊るして叩きつけ表戸を破りました。民衆はそうやって米屋の中に入りました。また、この打ち壊しに参加していた民衆は西光寺の境内で炊き出しを行いました。
 翌朝早く、丹波屋市右衛門(ここも打ち壊されたと)の仲介で解散するまで、米屋町・中之町(今呉春酒造のあるあたり)の米屋が打ち壊され、池田では大きな騒動となりました。この結果、米価は1升300文で売られるようになりました。また、油や醤油などもその後安く売られるようになったようです。
 また、当時の様子が稲束家日記の慶應二年五月十日の事として記録されています。
「五月十日、曇折々時雨、夏至 夕方より天神之森ニ而百姓寄合、暮方より大ぜい新町江行米屋一統こぼち、干藤、かや藤、長谷屋、山益、かや平、中島屋別家、西源、麹元、堺新、米屋町飴作、外ニ有馬屋、千切屋別而大そんじ、夫より夜八ツ過よりいた半へ寄、西光寺に而飯たき、明がた又中之町へ来、丹市、飴儀、座古太おこしに来、丹市より引合ニ及夫より皆々引取。
 右の如く打壊し騒動は一夜で終りしも、翌十一日、十五日、十九日の三回、酒造仲間が酒会所にて米、油、醤油など安売り行いし事日記に見ゆ。」
 1867年の大政奉還により明治という新生日本が誕生する前年の事でした。幕末はこのように、日本中が、池田においても大変混乱した社会情勢でした。人々の心に権威や信用など様々なカタチで根づいていた幕府は、消えようとしていた時代でもありました。


 追伸:1854年(安政元)にロシアの使節プチャーチンがジアナ号他の艦隊を率いて函館に現れた後、大坂天保山沖に現れます。大坂市中は上を下への大騒ぎとなります。誰もが平素のように家業を営むことができず、多くが天保山に押し寄せ、中には舟を出してジアナ号に近付き捕縛された者もあったそうです。その時徳川幕府は急遽、在坂諸藩邸に触れを出して兵を出させ、天保山を中心に沿岸警備をさせたそうです。その数1万4〜5000人。交渉の結果、ひとまずジアナ号は天保山沖を去り落着します。
 そして、その後幕府は摂海防備を強化していく事になります。1857年(安政4)幕府は、池田慶徳・池田慶政・山内信豊の三大名に大坂の警護を命じています。
 不穏な動きが各地に起こり特に長州征伐はその大きなものでした。これにも莫大な費用が掛かり、幕府はその捻出に富裕商人への「御用金」要求という形で切り抜けようとします。天領への課税、特に大坂・堺・兵庫(神戸)・西宮の町人に課せられた金額は、総額249万8,000両(1両10万円で計算すると2,498億円)に達しました。しかも、度々御用金の要求があり、そのあまりの要求に三井家は存続の危機に立った程でした。与力内山彦次郎からの御用金上納の口上は以下のようなものでした。
 『浦賀及び長崎表に於ける外国船渡来一条は汝等の熟知するが如し、彼等の願う所は交易にあれど、まんいち交渉破裂して彼我兵を交ふるに至らば、武士は砲煙弾雨の間に出入りし、農民は夫役に服して屍を戦場に曝し、工商も亦其居に安ずるを得ず、妻子東西に離散するに至るべし、目下莫大の金額を費れば、民間いたづらに茶杓を握り、浄瑠璃を語り居る場合にあらず、銘々奮って出金し、防御の固からんを願ふは、御仁沢に浴せる町人の奉公にあらずや(後略)』
 この事を考(個人的ですが)えると、池田も直轄領だった関係から御用金の上納を課せられたのではないかと思われます。因みに、天領である河内木綿で栄えた八尾(久宝寺町)にも多くの御用金が課せられているようです。 そんな幕末の混乱が池田にどう影響を与えたのか、今後も調べて行きたいと思います。

※写真をクリックして下さい→



画像:幕末の池田の様子

幕末の池田の様子


大塩平八郎像


画像:天保飢饉の様子

天保飢饉の様子


画像:大塩発行の施行札

大塩発行の施行札


画像:大坂での蜂起の様子

大坂での蜂起の様子


画像:引き上げる奉行所隊

引き上げる奉行所隊


画像:広瀬旭荘

広瀬旭荘像


写真:池田村飴屋瀬平宅跡

飴屋瀬平宅跡


写真:岐尼神社

岐尼神社


写真:旧池田街道

旧池田街道


写真:三田興福寺

興福寺


写真:池田村年寄屋敷跡

池田村年寄屋敷跡


写真:池田法園寺

池田法園寺


写真:池田天神の森跡

池田天神の森跡


写真:山川正宣の墓

山川正宣の墓


▲ページのトップへ

呉江舎について個人情報の取扱い免責事項│ 

バナー:ホームページ制作の池田屋 当サイトは、ホームページ制作の池田屋が、
管理・運営致しております。
Copyright (C ) Ikedaya All Rights Reserved.