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<天文の宗教戦争>
1531年(享録4)6月、前項の通り政権の中心的人物であった細川高国の死「大物崩れ」により、その幕を閉じました。これを破ったのは、争った澄元の子晴元で、更にその軍の中核を成していたのは三好元長(三好長慶の父)でした。
阿波の強力な軍を利用し細川高国を倒した細川晴元なのですが、その後、晴元を勝利に導いた元長とも敵対関係となっていきます。そこに登場してくるのが、河内北半国守護代の木沢長政です。長政は晴元の被官となって元長と対立を深めます。
そして、強兵で成る元長ら阿波勢は、遂に1532年(享禄5)5月19日、木沢長政らを飯盛山城に囲みます。これを援護するため、細川晴元は劣勢を挽回すべく本願寺門徒の動員を図って成功します。これがいわゆる「天文法華の乱」といわれ、摂津池田家もこの乱世に飲み込まれていきます。
同年6月5日、石山御坊から証如光教は、摂津・河内・和泉の門徒に檄を飛ばして細川晴元に加担するよう伝えます。その数3万人。大軍勢は、忽ち三好元長勢を蹴散らして、敗走させます。
三好勢の中心人物である、三好元長は堺に、畠山義尭は河内国高屋城に逃げていましたが、本願寺宗徒に滅ぼされています。この頃、本願寺勢の数は更に増え、十万とも二十万ともいわれるまでになり、当時としては信じられない、前代未聞の動員人数でした。
ちなみに三好元長の子、長慶とその母はこの時、阿波に非難していて事なきを得ています。
しかしこの頃同時に、本願寺宗徒の一揆は暴走を始めてしまい、7月に大和での一向一揆の蜂起があり、8月5日には摂津でも池田城を囲みます。池田城はこの時晴元方ですが、この8月までにはそれまでとは逆で、晴元勢と本願寺宗徒は敵対関係となっていました。
この時の池田家惣領(当主)は、それまで三郎五郎の名乗っていた「久宗」で、1508年5月に自刃した貞正の直系が再び「家」の代表となっていました。
池田はこの当時、その立地的特性から都市化が進んでいたようで、軍事的にも重要な場所ともなっていました。五畿内と呼ばれる京都を中心とした地域の中で、大都市のひとつに成長していました。
さて、一揆方は、伊丹平野の農民が主たる構成員だったと推定されています。中でも尼崎や塚口あたりには道場と呼ばれる拠点が多く集まり、この付近が大きな力を発揮していたことから、そういった方面からの参加者が多かったようです。
その内に状況が変化し、堅固な池田城よりも堺への攻撃という重要度が増したために、和睦が成立します。
明けて翌年、細川晴元に敵対する本願寺勢は、晴元方拠点を次々と攻めます。摂津・河内両国は、大混乱となり、いたる所で交戦が行われていました。しかし、将軍義晴にも信任を得ていた晴元は、在地の武士を束ねて、徐々に一揆方を制圧していきます。
5月9日、晴元は池田衆など諸勢を伴って、大挙本願寺の拠点大坂を攻めます。この時には数を補うため、晴元が法華宗と協力関係を築いており、その事が軍事的優位をもたらしていました。
そのせいもあり、また、長期に及ぶ戦争で一揆を構成している人々が疲弊して、次第に一揆勢は晴元方に圧される状況が見られるようになっていました。戦いを生業としている武士に、一揆勢は適わなかったのでしょう。
そして遂に、6月20日、本願寺と幕府が和睦を結ぶに至りますが、この時、まだ12才だった三好長慶(千熊丸)が、両者の和睦調印に立ち会った(合意)としています。
しかし、これに従わない抗戦派の本願寺勢が、晴元方との戦闘を続けます。また、三宅・河原林・赤沢・薬師寺などの本願寺宗徒でもあった武士達もこれに呼応し、なかなか戦いの火は消えませんでした。天文3年になると、河内国内での戦闘も再び激しくなり、八尾・御厨・森河内・左専道・稲田などで、打ち廻りや交戦が行われていた事が記録に現れます。
翌4年も、相変らず交戦を続けますが、実際はやはり一揆方が圧され気味で、抗戦派本願寺勢の中心人物である下間頼盛の求心力は低下していきました。
9月14日、本願寺方に和平を望む声が高まっていた事から、下間頼盛は失脚し、大坂本願寺から追放されます。
11月26日、本願寺と細川晴元方との和睦が成立し、約5年間の宗教勢力を中心とした戦争は終わりました。
血みどろの戦争を経験した本願寺宗は、この後、徹底的な和平路線を堅持し、1570年(元亀元)秋の織田信長への抗戦まで、戦争に加担する事はありませんでした。
しかしながら、今度は別の新たな問題が発生しました。対本願寺戦の勝利に大きく貢献した法華宗が、自らの晴元政権への貢献に奢り、晴元と対立し始めます。
天文5年3月、晴元は遂に法華宗の表立った弾圧を始めます。これには幕府も晴元方に付き、六角氏など守護大名も法華宗勢力の制圧に動員(特に六角氏は晴元と姻戚関係にあった)されます。京都やその周辺で交戦が行われ、何と、本願寺方の好戦的残存勢力も蜂起して、一旦は、侮れない勢力となりますが、8月29日に本願寺方好戦的残存勢力の中心的人物であった細川晴国が、摂津国天王寺で討たれると、事態は沈静化に向かいました。
また、京都を中心とする法華宗の蜂起も、六角氏が協力していた事もあって、鎮圧されていました。
9月24日、五畿内での主だった蜂起もなくなり、晴元は入京します。晴元は、幕府に出仕し、幕府機能の正常化を内外に示しました。
諸説はありますが、天文7年8月1日、晴元は、京都における自らの政権を始動させる事となりました。
そしてまた、晴元政権の樹立には、三好長慶など晴元と同じ出身地の阿波国勢衆勢が、大きく貢献し、それをまた、在地の池田・伊丹家などが支えていました。厳密には、池田家は直接的に晴元と繋がって、三好長慶と共に支えていたようですが、やはり社会的立場は長慶の方が上で、軍事や経済力で勝るとも劣らない実力があっても、そのあたりのところで、どうしても格式や身分の差が出るようです。
そんな能力・実力のある晴元も、時を経ると人格の変化が出、大きな失策を繰り返してしまい、次第に社会的信用が低下。政権が不安定となって、再び闘争が激しくなっていきました。
そんな中にあって、三好長慶が台頭し、じわりじわりとその主体性が逆転していく事となり、晴元への対抗として細川氏綱が擁立される事態に陥っていきます。