※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。
<三好義興政権時代>
三好義興は、三好長慶の一人息子で、永禄3年1月に家督を継ぎます。義興は、跡継ぎとして「筑前守」を任官し、長慶は「修理大夫」を任官します。また、長慶は将軍義輝の御相伴衆となり、三管領四職に準じた高い地位を受ける事となりました。
要するに長慶は家督を譲り、後見人となったわけですが、長慶自身が幕府を支える主要人物の一人となり、強力に義興を支える体制を築いたわけです。
将軍義輝は、幕府主催者としてこの状況に危機感を募らせていたようですが、政治・軍事・経済と多くの分野で実質的に太刀打ちできませんでしたが、唯一無二の権威だけは侵されぬよう、懸命の努力をしていたようです。
しかし、表立って敵対する事は不可能で、桐紋の使用を許していたり、三好義興を訪ねるなどして、厚遇しています。
今も昔もあまり変わらないこの人間社会の闘争。力を持つとどうしても際限無く欲望も拡大していくようです。その膨張する欲望のために見なければいけないものが見えなくなり、それが大きな失敗に繋がるようです。
そしてまた、その失敗を繕うために、ナリフリ構わなくなり、その事で大切な信用すらも無くし、終いには不運が次々と重なり、自滅の道を歩む事になります。
しかし、そこに至る迄に大きな犠牲を払わなければなりません。それが人間の歴史のように思えます。悲しい事に、人間の歴史はその繰り返しです。
人間は他の動物と違い天敵はいませんから、どうしても人間(集団)同士で争います。大きな魚が小さな魚を食べたりして生きる事が自然として成り立っているように、人間の争いも自然であり、逃れる事のできない摂理なのです。
余談が過ぎました。
さて、永禄3年、三好長慶は幕府の名の下に河内国を討伐し、同国守護職の畠山高政を追放します。これにより、五畿内を中心とする周辺は安定するかに見えました。また、三好氏の支配地域は最大の版図となります。
しかし、翌年4月に、三好家を支える中心人物の一人である十河一存が死亡します。更に5月、細川晴元が摂津国普門寺へ入った事が波紋を呼び、これに反発する勢力が、各地で三好氏に対して反旗を翻します。
近江守護六角氏は京都へ、越前守護朝倉氏は若狭国へ、丹波国牢人衆は丹波国内で挙兵し、更に河内国を追われて牢人となった畠山高政は紀伊国で挙兵して、三好氏を脅かします。
反三好勢力は、各々が協働し、連携体制を以って対したため、三好勢は苦戦を強いられます。永禄5年3月には、京都と和泉国の両方で反三好勢が大規模な攻撃を開始したため、和泉国久米田での合戦で、三好義賢(実休)が戦死し、この方面の三好勢は総崩れとなります。三好勢は、岸和田城から河内国高屋城までも失う、危機的状況となってしまいます。
一方の京都でも三好方の士気が落ち、一旦京都を放棄して、軍勢を撤退させます。この時将軍義輝も京都を退き、山城国石清水八幡宮へ避難する程でした。また、和泉国方面の反三好勢は、三好長慶の居城飯盛山城をも囲むまでの勢いとなっていました。
しかし、5月になると摂津国芥川山城の三好義興や大和国信貴山城(奈良多聞城)の松永久秀が体制を立て直して反撃し、河内国教興寺にて大勝して敵の主要な人物を多数討ち取る勝利を得ると、これまでとは逆に京都の反三好勢が戦意を失って、撤退しました。
6月には将軍義輝は京都に戻り、一応の平静を取り戻しています。また、まもなく、河内国の高屋城も回復し、和泉国も有力者との連携が確保され、再び三好方の統治に戻りました。
ここからやっと三好義興による家の当主としての政治手腕発揮かと思われたのですが、永禄6年8月25日、22才にして死亡してしまいます。その死因についてははっきりしておらず、当時としても毒殺などの陰謀説が流れた程だったようですが、この年、細川晴元・同名氏綱・池田長正・別所村治などが病没している事から、その死は疫病によるものかもしれません。
三好義興の亡くなる直前まで、長慶や関係者は八方に手を尽くしたようですが、その甲斐無く他界してしまった事に長慶は、非常に落胆したようです。
史料を見ると、その後、直ぐに代わりの人物を立てていないところを見ると、これ程若くして義興と死別するという事は、考えもしていなかったようです。また、一人息子であり、家督への期待は大変大きかったように思われます。故に後任の人選は進まず、長慶が死亡する直前まで決まらなかった様子が伺えます。
長慶の不本意な形で、その思惑は崩れ、また、立て直ししようにも精神的な衝撃が大きく、何も決められない状態がしばらく続いたようですが、永禄7年7月に今度は長慶自身が死際に近づくと、さすがにそうも言っておれず、十河一存の家督から養子(義継)を迎えて、三好長慶の家督を継がせる事で、相続問題を落着させたようです。
三好義興が家督となった期間は、永禄3年1月から、同6年8月25日までのたった4年余りですが、この間の出来事は、非常に内容も深く、また、この間の池田氏の活動についても広範ですので、以下、年毎に区切ってお伝えしようと思います。各々、ご覧下さい。