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<勝正・知正の死>
さて、池田家内訌が起きた事から、惣領の座を追われる事となった池田勝正ですが、その最期については全くわからず、定説もありません。
しかし、当時の史料などを丹念に紡いでいくと、おぼろげながらその想像ができるように思います。言い伝えなどによると、勝正は三田城に領地を得た有馬則頼に客分として招かれて、最終的に九州へ渡って一生を終えたともあるようですが、実際に九州方面で状況を確認してみると、それは事実上不可能でした。この事から、今のところ、勝正の墓が伝わる三田市小柿で死亡したとするのが、自然であると思われます。
ただ、勝正の墓とされるもの等も、伝承の域から出てはいないのですが、その地域には、勝正につき従ってきたと伝わる家も数軒あります。
そして、広島県福山市神辺町に、勝正の血を引くと伝わるお宅があり、そこに伝わる伝承も時期や場所を考えると、完全な否定もできない興味あるものがあります。
永禄11年(1568)年10月、足利義昭・織田信長政権に組み入れられ、両者が不和となり分裂した時も、また、天正6年に死亡したとされる年までの史料を見ても、一貫して公的な将軍であった義昭に従っていました。
それらの経緯を考えると、福山市の勝正説は、当時毛利氏に迎えられて共に逃命していた義昭の護衛などとして入っていた事も十分に考えられるのです。また、その場所も、西国街道上の要衝にあたるところです。
また、そのお宅に伝わる勝正に関する遺物には、「天正六年十月十五日」との日付があり、これがもし本当なら、勝正は、その日まで現福山市方面に居た事になります。
この頃、荒木摂津守村重が、織田信長政権から離れ、足利義昭を奉じる毛利氏に協力する事を決します。
時期としては、これを知って摂津国方面へ戻った事もあり得る事です。例えば、本格的な冬の前、11月に小柿方面へ入ったとも考えられます。
更に想像すると、天正四年から丹波国の有力者であった波多野氏と国境を接する荒木村重が同盟し、これに織田信長勢が12月頃、侵攻してきます。小柿方面へも勝正はこの時に織田方と戦って戦死したのではないかと考えています。
そして、勝正の弟とされる知正についてですが、彼については、勝正ほどの史料もなく、あまりよくわかりません。彼の死亡した年から年令を引くと、1554年生まれになります。
元亀元年の池田家内訌の時、池田勝正を追放し、その後の家督に知正を立てたとするものが定説となっていますが、当時の史料を見ると、その事実は確認できません。「民部丞」なる人物が、確かにみられますが、これが知正と同一人物かどうかは、今のところ断定できません。
この時、一旦は後継当主を立てた可能性は無くはありません。これが知正だとすると、前記の生まれ年から考えると、16才です。しかし間もなく、新たな当主を立てるよりむしろ、池田家中は方針を変えて、池田四人衆を改め、代表格を最高決定機関として、運営されてたと考えられます。
そして、今のところ時間的なつじつまに少々無理があるのですが、久左衛門尉には子がなかったとの事実と、有岡城落城の時に処伐されたとされる荒木久左衛門の子「自然(じねん)」の悲しい出来事は、誤差があるものの、ある程度矛盾の無い流れのように思われます。
また、知正も無嗣であったことは事実で、これが久左衛門尉と知正の身の上の偶然の一致か、同一人物である手がかりなのか、判断は難しいところです。
有岡城落城の時、池田一族中に多数の犠牲者を出しているため、その時に血をつなぐ未来が狭くなり、久左衛門にとっても、家を継ぐという点において、難しい判断を迫られていたのだろうと思います。
さて、池田家の伝統的な惣領の官位である「筑後守」を名乗らない、この備後守知正は、摂津池田家を継ぐには、当時として、池田一族との血の繋がりも持ち、且つ、最もその家系が地域内で有力であったためと思われます。
織田信長方による摂津国制圧後(天正8年)、間もなく、池田恒興が3年間程摂津国を領有します。その間も池田知正は池田家本拠地である池田の代表者として、その地位を保ち、池田周辺である程度、影響力を持っていたようです。
天正10年6月の山崎の合戦、翌年4月の賎ヶ岳の合戦を経て、同12年(1584)小牧・長久手の戦いには、羽柴(豊臣)秀吉の陣に、後ろ備えとして、池田久左衛門尉が90名を従えて在陣しています。この場所は、秀吉の本陣のすぐ前に控える配置です。
一方、知正は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いを経て、晩年には5,000石を領知したようです。その頃の記録(慶長6年:1601)として、奈良春日社南郷目代今西家の古文書(摂津国内春日社領御神供米算用状)に「給人池田備後」と見え、知正を指すと考えられる史料があります。これ以外に今のところ、その当時の史料は今のところ見られません。また、知正の備後守任官は、彼にとってはかなり遅く、その晩年に近い頃なのかもしれません。
それから、興味深い記録もあります。小牧・長久手の戦いから、関ヶ原の戦いまでの間に、復興しかけた池田の町がほぼ全域に被害が拡がる大火事が起ります。文禄4年(1595)10月20日の夜に出火し、原因は放火のようです。この頃、池田の町には瓦葺きの家は一軒もなく、それがために、被害が大きくなったとしています。ちなみにこの年、関白豊臣秀次を切腹させる事件があり、この秀次にも元池田家家臣がしていたようです。
そして、1603年(慶長8)、知正は、摂津国豊嶋郡(現池田市神田)神田の館にて、49才で亡くなります。この時、彼は無嗣で、その弟であった光重の子を養子として、三九郎に後を継がせたようです。
しかし、その三九郎も18才の若さで没します。これを受けて、急遽、光重がやむなく家賢を継ぐ事となりました。