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<両陣営に分かれて活躍する池田衆>
池田四人衆制度を最高決定機関とした三好三人衆方の摂津池田家は、摂津守護で幕府要人である和田惟政を討った後、大きく勢力を伸長させます。
茨木や吹田など主要な拠点を手中に入れて、京都から西の幕府・織田信長方勢力を分断する形勢をなっていた池田家は、三人衆勢として、更に重要な立場となっていきました。
その後、三好三人衆過多と幕府・信長方の主戦場は河内に移り、一進一退の攻防が繰り広げられます。河内での抗争の中心は、高屋城で、畠山昭高・遊佐信教などが幕府・信長方として防戦していました。
1572年(元亀3)早々、河内のカナメ的存在である高屋城救援を行うべく、幕府・信長方は方針を固め、4月に北河内の交野へ出陣します。これに摂津守護池田勝正も、幕府・信長方として従軍し、河内各地に転戦していたようです。間もなく、目的を達し、幕府・信長勢の撤退に伴って勝正も河内から離れたようです。
しかし、6月になると本願寺教如光佐による門徒衆の大規模な蜂起が行われ、摂河泉などいわゆる五畿内は、三好三人衆勢の活動が活発になります。
そんな中で、幕府衆細川藤孝は、京都から西への連絡路確保のため、吹田・三宅・茨木城を落とします。地理的・政治的などの関係から、これらの藤孝の動きに池田勝正も関わっていた可能性が高いと考えられます。
両陣営に分かれた摂津池田衆は、各々の立場で、大きな役割りを果たしていましたが、そんな時に、更に大きな政治的うねりが起ります。
将軍義昭と織田信長との間にヒビが入りはじめます。これに連動して、摂津池田衆のつながりも微妙に変化をしていき、将軍義昭(幕府)の動きに利害を共通させる者同志のつながりを生み、諸国諸家間でも新たな自然再編がおこります。
そして、摂津池田家中では、荒木村重が頭角を現わし、彼に希望を託す者が増え始めます。
結果的に村重有利となって、間もなく、村重に政治・軍事の実権が委ねられて事実上、主家と家臣が逆転したかたちになります。
また、勝正・池田四人衆の一人、池田清貧斎正秀などは、将軍義昭に、村重は信長方に加担したこともそれぞれの明暗を分ける要因になりました。
途中、細川藤孝(ふじたか)の誘いもあったようですが結局、勝正は将軍家についたようです。