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<戦国時代初期の頃>
原田郷の事件後、間もなく、細川勝元(かつもと)・山名宗全(そうぜん)との争いに端を発する1467年からの応仁の乱は、畿内をはじめ日本各地に火種が飛び火して日本国内は大混乱となります。摂津地域でも例に漏れず池田氏は、戦いに参加しています。記録によると「騎馬十二騎に野武士千人を率いて細川方として堂々の入京を果たした」と有ります。(単純にこの動員人数から、江戸時代の石高で換算すると約四万石に相当します)
しかし、威風を誇った池田氏に試練が訪れます。1469年(文明元)7月26日の西軍大内氏からの攻撃で充正(政)の守る池田城は落城します。しかし同年10月の大内氏撤退により勢力を回復します。また、1478年(文明10)には桜井郷の代官職をも入手します。この時、今も池田にある大広寺を文明年間(1469〜1487)に伽藍諸堂を再建して菩提寺とします。この充正の時代で基礎の財政基盤と地域の有力者として地域の名誉も手に入れたようでした。彼は、1482年(文明14)55才で没します。
また、充正の弟恒元が尾張に住み、後に織田信長の乳兄弟として重用される池田恒興となったと伝わりますが定かではありません。
11年続いた争乱は、ひとまず小康状態でしたが、また社会が乱れます。乱の間に衰退した山名氏に代って今度は、細川一族のウチゲバが始まります。管領細川勝元の嫡子政元が実権を握っていましたが、実子がなく養子を迎えていました。その相続争いに巻き込まれて養子の澄之一派に政元は殺害されます。ここから血で血を洗う乱がまた摂津を巻き込みます。
一国人の池田氏も戦乱に巻き込まれていきますが、池田氏はなぜか自身のこだわりを貫く行動をとります。どうみても小数という場合でも敢てそれを固辞し、意思表示を鮮明にしているきらいがあるように思います。通年で歴史をみると、何度かそういう事があります。自立心、または独自性の強い家風だったのかもしれません。
室町時代は、その始まりから終わりまで、戦いばかりの時代でしたが、京都に近い摂津(池田)は度々巻き添えとなっていたのは、少し触れました。それは色々な要因がありますが、京都という都は堀もなければ城壁もないという都市で、攻め易く、守り難く、既得権が強いという特徴がありました。このため、京都を攻める常套は、その周辺で軍勢を仕立てて一気に攻めるという手法が代々採られていました。
故に摂津は要地で、そこに土着している国人などは、常にその帰趨を決しなければいけない立場にありました。お負けに、池田は都への通過点ともなっていて、関係しないわけにいかない運命になっていました。
しかし、悪い面ばかりではなく、摂津国人池田氏は中央政権に近い事、発達した流通・経済を利用し、その地位を着々と築いていきました。戦国時代の一国人のしたたかさかも知れません。