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<信長・足利義昭連合軍畿内制圧>
そんな中、松永久秀などと約束した通り、尾張守護となった織田信長が、足利義昭を奉じて上洛戦を敢行しました。
元々、第十三代将軍義輝を殺害して京都を中心とする畿内地域を支配しようとした三好義継を筆頭とした三好三人衆・松永久秀勢でしたが、考えの違いから分裂していたために、その公的な正統性の所在は不確かなものでした。
この隙間に第十四代将軍義栄が入り込んだのですが、第十三代将軍義輝との繋がりは、血縁的にも薄く、公的な説得力も欠いていたようです。
それに比べて将軍後継として正統を掲げる足利義昭は、義輝の嫡子です。こういった事情に信長も目をつけ、且つ、政治的状況も、意外と義昭を支持する地域勢力や亡命中の有力者(河内守護畠山高政など)が多かったのです。これらの点で、信長も勝算は低くないと見ていたのでしょう。
その信長の目論見は見事に的中し、非常に短期間で尾張から京都へ入る事に成功しました。更に京都周辺も制圧する事で、当面の優位を保とうと、摂津・河内・大和などへも侵攻して、これらを制圧します。
また、この時、各地で信長勢に抗戦する動きがあったようですが、信長勢の動きが電撃的でもあり、抗戦への準備が整わずに大きなものではありまえんでした。将軍義栄政権の中心である三好三人衆勢も各地で信長勢に圧されて、敗走しました。将軍義栄と三好三人衆は、本拠地である淡路・阿波・讃岐国へ一旦退却すべく、海を渡ります。
しかし、将軍義栄政権に深く関わる摂津池田家は、逃げる場所がありません。三好三人衆方に並ぶ勢力を持つ池田家は、退却してくる三人衆方の人々を引き受けたりしながら、信長勢に対して抗戦の構えを見せます。この池田家が挑んだ戦いは、この時の信長の上洛戦では、一番激しい抵抗となりました。
池田城を総攻撃した信長勢は、信長の馬廻りである水野金吾某被官・同魚住隼人某なども死傷し、多数の手負いを出していたようですが、なおも抵抗の構えを見せていたため、信長勢は城下に放火を始めます。また、この時、双方に鉄砲も使用した事でしょう。
この頃の池田家当主は、筑後守勝正ですが、元々補給も援軍も期待できない籠城戦であったため、勝正は長期化させずに信長方に降伏を申し入れて、停戦となります。これを以って信長の上洛戦は、事実上終了します。