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<徳川時代になる頃>
池田光重は豊臣秀頼に仕えて「備後守」の官位を受けます。束の間の平和が池田の地に訪れます。
安定的な地位に就き戦乱も少しの期間なかった事から、気持ちにも余裕ができたのか、信神深い光重は、池田氏ゆかりの大広寺に十石の田地を寄進し、更に知正・三九郎の菩提供養の為に画像と梵鐘をも寄進します。他にも椋橋村の椋橋神社(現豊中市)に獅子頭等一式と神田村(現池田市)の八坂神社に本殿を寄進(現存)します。
しかし1614年(慶長19)、光重にとって大変な事件が起きます。摂津・河内で豊臣秀頼をののしる巫女が捕らえられ調べると、光重の妻の関与が明らかになり光重は官位と所領を没収(なぜこのような事件が起きたのかは今のところ謎です)されます。
また、別の説では、光重の家臣である関弥八郎(光重の妻とも)が貸金横領の咎で訴えられて改易とあります。
しかし、光重は関与していなかったため、法命寺(駿河国)に蟄居(←静岡県庁に問い合せたところ担当の部署の方から回答があり、この名前の寺は存在しない可能性が強いとの事です。現在も調査して頂いていますので、追って最新情報をお知らせします)したとあります。1628年(寛永5)5月19日没といいます。