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<池田家士族とその後>
また、この年、池田村の庄屋菊屋助兵衛、年寄牧屋五兵衛・同淡路屋新兵衛等村役数名が軍資と清酒(池田郷で天文・弘治頃(1532〜1555)から醸造業を営んでいたと言われる満願寺屋の酒)を暗峠に陣していた家康に献上しました。
その戦勝後、家康公からいわゆる「御朱印状」と言われる禁制と酒名を賜りました。御墨付を得た満願寺屋(池田村?)は、「満願寺酒」を「養命酒」と改名して販売し、元禄時代には11,230石余(摂津・和泉・河内で最大量)を生産する繁盛を得るに至ります。池田村全体もこの時酒造のピークを迎え、町は賑わいました。
この池田村繁栄のキッカケが、池田氏没落の時と同じくしているというのも何か皮肉な感じのする歴史ですね。
1614年(慶長19)、徳川家康の大坂城攻め(冬の陣)があり光重は家康麾下の武将、有馬豊和に従って出陣(多分御家再興のための陣借り)します。大阪城落城後にその功を以って禄を得ようと、光重の子重長(三九郎の弟)を伴なって江戸に向かいますが、認められず江戸(芝か?)で没します。
重長も江戸に止まり再び池田に戻る事はありせんでした。某かの禄は得られたのかもしれません。
重長の後子孫は、貞長、貞重、興貞、貞彦、貞夫、貞一、貞瑞1874年(明治7)嗣子なく没しますが、その弟の作東が分家して相続し現在も受け継がれているそうです。
一方、摂津池田では町に池田氏の旧家臣等が戻り、再び土着していました。彼等は池田の町の中心地である井戸の辻(高札場)付近に住み、様々な特権を得ていたようです。
彼等は東本町・西本町・米屋町・中之町・小坂前町あたりに住んでいたようです。酒造家(大和屋)山川氏や初め問屋で後に酒造業(麹屋)等を営んだ稲束氏等、今も旧池田市街には多くの子孫が住んでおられます。
また、荒木氏(村重の系統が主)の旧家臣も池田に戻り土着して酒造業等を営み、文化人としての著名な活躍をした人物も輩出しました。