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<内訌直後の池田家当主>
系図などにより元亀元年の池田家内訌直後に池田知正は、勝正の後の池田家惣領を継いだというのが通説になっているようです。しかし、当時の史料を紡いで見ていくと、知正がすぐに池田家当主となったかどうかは、全く確認ができない点で、疑わしく思えます。
確かに知正は、惣領を支える身分の高い重臣や側近ではあったようですが、本人が署名した史料は一通も見当たらず、その周辺の関係者が知正の名を記述したりするような間接的な表記で見られるものが、数通ある程度です。
知正は後に、「備後守」を任官していますが、1601(慶長6)頃までには備後守としての記述が見られるようになっているというもので、織田信長の存命中では無い時代です。
知正が、摂津池田家の本家筋を継いだのは、事実のようですが、それはどうも様々な事情があって、元亀元年から随分時間が経ってその座に就いたというのが、本当のところのようです。また、知正は「備後守」を名乗った頃に池田家当主となっているようですが、代々の当主筋の官途である「筑後守」を名乗る事はありませんでした。単純に、考えてもこれは、これまでの流れとは別な扱いです。
そして、元亀元年の内訌直後の池田家当主は誰かというと、三好三人衆の事例もあるように、池田家も「中心人物による合議運営で以って政治を行っていた」と考えられます。
池田家関連の史料は年記の無いものが多く、推定が難しくもありますが、荒木弥助(後の村重)の地位の上昇を示すと見られる名前の変化から見ると、元亀元年の内訌時に池田四人衆の内二名が殺害されて残り二名となり、そこに荒木弥助が加わって、三人体制で池田家中の政治を行う暫定的編成が行われたようです。
ちなみに、元亀2年2月5日に堺商人である天王寺屋(津田)宗及の茶席に、三好三人衆の一人石成主税助友通と清貧斎(池田紀伊守正秀:池田四人衆の一人)が出席していますが、これに清貧斎は、荒木弥助を伴っています。茶席の顔ぶれや時期から見ても、この時点で、池田家中枢の三人体制構想は立っていたのだろうと考えられます。
また、兵庫県史などで元亀元年6月と推定されている年記未詳の摂津国有馬湯山年寄中へ宛てた池田家中二十名程の連署状(以下湯山文書)は、これも荒木村重の名前と官名から考えて、元亀元年ではなく、同2年以降のものと推定できると思います。
この湯山文書を発行した時点で、村重は「池田信濃守村重」と名乗っている事から、弥助であった頃からは、地位を上昇させています。この時に、既に三人体制の家中の合意はあったのかもしれないとの推定はできますが、同時に対外的には、新体制での連署を使い分けていたのかもしれません。
池田家内訌後、新体制で政治に臨む事の枠を持ちながら、事実上、四人衆の残り二名が中心である認識はされていたと思われますが、時が経つにつれて、次第に主体が絞り込まれ、関係者の合意も得られた事から、荒木村重を加えた三人体制が、正式に成立したものと考えられます。