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ページタイトル:摂津池田氏
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<戦国大名荒木村重の活躍と没落>
織田信長の政策に活路を見い出した荒木村重は、信長に接近しました。1573年7月に将軍義昭と信長の政争に決着がつき、将軍義昭は京都を追われます。しかし、義昭は京都へ戻り、幕府の再興を望んだ事から、亡命政権を始動させます。このため潜在的な「反織田信長」勢力と地域政権抗争(地域的な主導権争い)の利害関係をも巻き込んで、政治・軍事的には義昭派か信長派か二分する状況が続いていました。
 織田方の1574年(天正2)までの状況としては、八方を敵に囲まれ、先代の急逝から体制を立て直した甲斐の守護家武田勝頼が、京都への上洛を具体的に進めており、近くは河内国南部、紀伊国、大和国は完全に掌握できておらず、毛利方は本格的に東進を始め、制圧したはずの越前国では大規模な一揆が起っていました。決して圧倒的に織田方が有利という状況ではありませんでした。
 そんな中で、村重は信長派として、当面は摂津国内の統一に専念したようです。村重の所属した摂津池田家は分裂したものの、村重などを中心とした勢力は、多勢だったらしく、この事から池田家正統を自負・喧伝したようです。池田家は、元々富裕で経済力もあり、また、摂津守護格も幕府により公認された実績も持ちます。
 村重は、これらの背景に助けられ(利用し)ながら、摂津国内において、政治・軍事的な優位を築き、4年程度で摂津国内を一応手中に納めた模様です。
 そしてこの事で、村重は、反信長勢の多い地域と国境を接する事となり、最前線を担う事ともなりました。摂津から西は播磨国、北は丹波国、東は山城・河内国、南は淡路・和泉国といった国々と国境を接します。この内、丹波国については、担当する明智光秀・細川(長岡)藤孝の後方支援。山城・河内国へは、池田家時代からの活動で築かれた関係を利用して、影響力を拡大。和泉国へは、商人自由都市堺を通じて対応。
 これらの中でも特に信長の要望もあったらしい播磨・淡路国へは、軍事力を中心とする活動を積極的に行い、少なからぬ成果を上げているようです。
 播磨国内は、その更に西の毛利輝元の東進の影響もあり、国人衆の勢力は複雑でした。村重は、これらに信長方として政治的対応を行い、赤松左京大夫義祐・小寺藤兵衛尉政職・別所小三郎長治など同国内の守護や有力国人を取次いで、信長に面会させたりしています。
 また、村重は備前国有力者(大名)浦上遠江守宗景の支援のため、信長方として対応をしています。これは足利義昭と繋がる毛利方の最前線でもありました。
 そして淡路国は、1570年(元亀元)以来、反信長方の立場を取り続け、巨大な経済・軍事勢力であり摂津国大坂に本拠を置く本願寺への要所となっていました。これへ村重は、摂津国内の尼崎・兵庫などから対応を行い、時には水軍を編成して淡路国岩屋などへ攻撃を行っていたようです。
 村重の織田政権内での主たる役割は、もちろん摂津国の掌握もですが、やはり大坂本願寺の封鎖も大きな要素だったと思われます。大坂本願寺は摂津国内にあり、また、海とも繋がり、更に日本全国の門徒とも連携が可能でした。本願寺宗の門主は、天皇から認められた門跡という社会的身分の高さも侮れず、地理的にもいつでも京都への反転攻勢橋頭堡となり得る場所でありました。
 それ故に村重は、1574年(天正2)には、国内の統一を加速させ、また、大阪湾岸の大都市の掌握も急ぎ、7月20日に足利義昭方の本願寺門徒衆とも中嶋で大会戦を行うなどして、封鎖網をより狭めます。この時は、村重勢に多大の犠牲を出していたようです。
 そして11月15日、摂津国内のもう一つの足利義昭方の拠点、伊丹城を落とし、長年本拠としていた池田城を畳んで(実際は機能縮小と思われる)、同城へ入ります。
 また、摂津池田衆も天正2年までは、足利義昭方勢力として、摂津国内で影響力を保っていたらしく、この伊丹城落城を持って、その勢力を後退させたようです。以降は本願寺方に付いて、行動したのかもしれません。
 さて一方村重は、この伊丹を本拠とし、有岡城と改名しています。これは、西国街道・尼崎・兵庫・三田・吹田・茨木・高槻などの要所を管理して大坂石山本願寺に備えたようです。
 そういう様々な役割を担いつつ、更に越前・紀伊国への従軍も命じられています。数年に渡って信長派としての活動を続ける内に、村重家中は疲弊が進んだのかもしれません。その結果、家臣の不満も募っていったのではないかと思われます。

 1573年(天正元)7月、将軍義昭に加担せずに信長に加担する事で、家中の信任を得た村重は、その5年後の1578年(天正6)5月、毛利輝元の領内で亡命政権を主導していた足利義昭方との接触を開始した模様です。そして、遂に村重は、同年10月に信長へ反旗を翻します。
 村重が代表するこの行動は、当初、摂津国内の全ての村重被官衆も反信長としての意志を示しており、則ちこの事は、村重の単独行動ではなく、大多数の被官人を含めた総意であったと考えられます。
 その反信長の理由が、100パーセントの一致ではなく、各々の考え方の違いがあったとしても、村重が反信長の態度を表明した時には、概ね合意されていた事と考えるのが自然だと思います。
 しかし、村重が思うように戦況は展開せず、ジリジリと負けが込んで行くようになり、数カ所の拠点に籠城して救援を待つ程に村重勢は追い込まれます。この事態を受けて村重は、遂に自ら毛利輝元への援軍要請を決意し、有岡城を密かに出て尼崎城へ入ります。村重はそこから、海路を西へ向かったようですが、この報に接した信長方は、有岡城に総攻撃を行います。その後の資料を見ると村重は、間を置かずに尼崎城から海へ出たと考えられます。
 そして間もなく、信長勢により有岡城は落とされてしまい、信長への対抗の求心力を失いました。有岡城などで村重に従って抗戦を続けた被官達は、戦死したり生き別れたりして、苦しい最後を目の当たりにする事となりました。
 ここに摂津池田家は分解し、その後は、家庭・家族単位で各々活動する事になったようです。

池田氏家系図はこちら



画像:織田信長

織田信長像

画像:荒木村重

荒木村重像

写真:大坂本願寺跡

大坂本願寺城跡

写真:尼崎城跡

尼崎城跡

写真:摂津国堀(中嶋)城跡

摂津国堀(中嶋)城跡

イメージ:淡路俎板山(岩屋)城跡

俎板山(岩屋)城跡

旧西国街道

旧西国街道

写真:池田城跡

池田城跡公園
<マップB-3>

写真:伊丹(有岡)城跡

伊丹城

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