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<池田家内訌>
そんな中、再び池田家中に内紛が起こります。諸説ありますが池田筑後守勝正は、その家臣である荒木村重(むらしげ)や中川清秀(きよひで)等によって追放されます。
この頃、織田軍から畿内を一掃された三好三人衆勢が虎視眈々と畿内への巻返しを睨んでおり、この池田家中のクーデターもそれと連動した動きのようです。個人的には、荒木や中川はそれに乗った(現に代々池田家は三好家と入魂の間柄)のではないかと考えています。一国人の去就は思い付きでできるものではありませんし、考えた末の事だと思われます。
また、信長の文書記録の中に、勝正が今井宗久の知行地を押領しているとし、それを止めるようにとのものが二通あり、これが勝正追放の何らかの原因になっていたかも知れません。
そして、新興勢力の織田家にとってもこの頃陰りが見え始めていますから、三好家から内通があったのかも知れません。何れにしてもこれは事を起した後で、諸勢力に誼を通じたのではないと思います。
さて、事件の事ですが、当主勝正を追放した経緯が「言継卿記」という古文書に書かれています。
それによると、元亀元年(1570)6月19日の事として、勝正の重臣2名が殺害され、勝正は反乱首謀者らに拘束されます。その後、刀根山(豊中市刀根山)あたりで解放された勝正は、小姓二人・小者二人ばかり、それに観世三郎(能楽者?)という者をつれてから大坂に落ちていったとあります。他にも同内容で、違う古文書が数種と事件に関連した別の視点からの古文書があります。
更に、別の記録による勝正のその後を見ると、勝正は三好義継の居城河内国若江城に逃れ、間もなく義継に同伴で将軍義昭と面会したとあります。この時の道程は、河内(枚方)街道・東高野街道・京街道などを使って京都へ入ったと考えられます。
事実上、摂津の最有力者であり、守護の一人でもある勝正が、このような事態に陥ったのですから、当然その幕府へ説明に上がったのでしょう。