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<白井河原の激戦>
そんな中、池田家の内訌によって勢力バランスが崩れたため、隣地の摂津守護和田伊賀守惟政は、警戒を強めていました。キリシタン武将としても有名な惟政は、その国境付近に砦を築きます。それを巡って戦端が開かれる事になり、遂に1571年(元亀2)8月28日、白井河原の合戦となります。
この頃池田方は三好家に誼を通じて、後顧の憂いを断ち、大挙出陣させて和田方に決戦を挑みます。池田方は3,000の兵に、その1割程にあたる300の鉄砲を備えさせていたようです。
対する和田勢は200程に後続が、700〜800(結局この戦には間に合わず)という少数だったと伝わっています。和田惟政は、血気盛んな武将だったのか、1569年(永禄12)1月の本圀寺の戦いでも、後続を待たず期を惜しんで単騎で多勢に突撃し、敵味方から「大剛の者」と賞されたといいます。
この戦いは今の茨木市郡(こおり)付近で行われ、戦いに勝利した池田方は勢いに乗じて、里城、宿久城、茨木城を落としました。更に、高槻城までも落とさんと攻囲中に幕府から三淵藤英・細川藤孝らの援兵が到着し、池田勢は退却します。
武勇を誇った都の副王和田惟政、その家臣茨木重朝など主だった者が討ち取られ、辛うじて惟政の息子惟長が高槻城に戻っていました。後に頭角を現す高山右近も彼の配下で、これらの合戦の生き残りの一人です。
また、この戦いで中川清秀は、和田惟政を討取ったとされ、次第に頭角を現していきます。ちなみに、中川清秀の由緒の地、中河原から白井河原までは、ほんの1里(約4キロメートル)以内で、目と鼻の先の所でした。今でも目視できる距離にあります。
三好三人衆方池田家は、このように勢力を拡大し、その後も暫くその体制を維持していました。池田城を拠点として、荒木村重は茨木城に、中川清秀は新庄城などに入ったとされ、要人の再配置が行われたようですが、次第に合議制による運営もその中心である池田四人衆(この時三名で運営)内で、ずれを生じて、村重と池田一族衆とで勢力を分かつことになります。