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<室町時代頃>
池田家では中興の祖とでも言える人物で池田充正(みつまさ)は、領地支配と金融業で成功し、一国人でありながら守護大名に匹敵する経済基盤を確立しました。その繁栄ぶりは中央にまで聞こえ、貴族からも「富貴栄華の家」「富貴無双」などと言わせた程でした。
それを伺い知る事のできる事件がありますので簡単に紹介しますと、「大乗院寺社雑事記」の1461年(寛正2)5月24日の項目に、摂津原田荘(原田郷)で境目に打った杭が抜き捨てられる事件があったと記してあります。犯人は田能大和(尼崎市田能付近の豪族)という人物ではあるが、その背後の首謀者は池田氏であることが判明し、この事件は金銭的な貸借による事が知られています。その発端は、この事件より遡る事2年、この時、数年に及ぶ大旱魃の最中で、年貢である神供料を納める事ができないという所が多発しました。そんな中でも義務を果たそうと延雅(えんが)という人物(記述された文に「大東正預子也」という注釈があり、この事から北郷牧務職の大東氏だと考えられています)が池田氏より百貫文を借り入れます。その大東氏は借り入れの時に自分の原田荘を担保にしていました。ところがそれを払えなかったばかりに、池田氏の私領となってしまったのです。
この文だけ読めば、何やら極悪非道な池田氏という感じはしますが、旱魃でも一定の神供料を納める事を義務化していた寺社勢力というのもあり、ちょうど制度の疲弊と新しい価値感の台頭する時代だったのではないでしょうか?個人的にはそんな風に読み取っています。
ちなみにこの時にやりとりされた一連の古文書には「池田ハ管領細川被管也」と記されていて、中央との関係が伺われます。この細川とは勝元です。
池田氏はそういった時流に乗り、支配地を拡大していきます。池田氏は垂水牧の内、いわゆる西牧(萱野郷、原田郷、桜井郷、榎坂郷。更にその中でも、萱野郷・原田郷を北郷、桜井・榎坂郷を南郷と呼んでいた)を主にその支配地のとしていきました。この地域には、後々池田氏の支族が土着したり、有力者とのつながりを持ったりという縁で連携していたりもするようです。