ページナビゲーション:呉江舎
ページナビゲーション:呉江舎
ボタン:ホームへ ボタン:わが街池田 ボタン:五月山 ボタン:池田の観光 ボタン:池田の特産 ボタン:池田の町並
ボタン:ぶらっとええとこ ボタン:企画予定コンテンツ ボタン:アクセス池田 ボタン:リンク ボタン:訪問者筆記帳
ボタン:池田城
ボタン:摂津池田氏
ボタン:幕末の池田
ボタン:池田の歴史
ボタン:勝正を追え!
ボタン:信長の野望
ボタン:ホームへ
バナー:親愛なる池田市様
ページタイトル:摂津池田氏
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<内訌の真相>
1570(元亀元)年の池田家内訌の真相についてですが、簡潔にいうと将軍義昭・織田信長政権内で、摂津守護を任された池田筑後守勝正が、池田家の権利と利益を護れなかったために、家中の反発を買った事が原因のようです。
 足利義昭を将軍とする京都の幕府は、三好左京大夫義継などにより殺害された将軍義輝政権を継ぐものではありましたが、不安定な体制でしたので、財政基盤を強化する等多方面で強硬な再構築を行わざるを得ない状況でした。
 足利義昭の軍事・政治の中心を担った織田信長でしたが、その常套手段である電撃行動により、1568(永禄11)年9月に急きょ、足利義昭を奉じて上洛しました。この性急な軍事行動により京都とその周辺を制圧し、朝廷(天皇)にも義昭を正当な将軍と認めさせて、公的な立場を短時間に作り上げます。この急激な動きに、混乱していた畿内の状況は、足利義昭・織田信長両人を中心とする政権に関心が高まり、集約されていきます。
 しかし、1〜2年も経った1570(元亀元)年頃になると、期待と現実との乖離に気付き始める者が続出し、再び元の不安定な状況に逆戻りしてしまいました。池田家の場合もやはり、そのように同じ状況にありました。
 摂津池田家は、将軍義昭政権内で摂津守護に任命され、守護として様々な役割を果たします。特に軍事的な負担は重く、2年足らずの間に京都の警護をはじめ、新御所の普請、播磨・但馬・備前・越前国への軍事行動を強いられました。詳しくは「摂津守護となった池田家」の項目をご覧頂くとして、その他、経済的な圧迫も将軍義昭と織田信長から受けています。
 1569(永禄12)年8月8日付けで、信長衆丹羽五郎左衛門尉長秀から、堺五ヶ庄内天王寺善珠庵分の年貢については、堺商人今井宗久が知行しているものだから差し出す(引き渡す)ように、との通知が筑後守勝正に宛てて発行されます。権利が衝突した時、「押領」という言葉でそれを指していますが、この善珠庵分の場合、新政権が一方的にその領有権を主張(保護)していたらしく、元々この権利を有していた池田家としては、当然の事ながら、簡単に認める事ができずに、交渉を続けました。
 同種の音信が、8月17日2通、同月27日4通、10月23日1通、11月11日1通、11月19日2通、1570(永禄13)年2月22日1通、に見られます。これらの差出し人は、堺商人の今井宗久が多いのですが、この方面の信長方担当者である丹羽長秀の名も見られます。また、宛先は、池田家当主の筑後守勝正を始めとするその側近(四人衆)や重臣で、荒木弥助(後の村重)・清貧斎池田紀伊守正秀・池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某・池田勘介正行・池田周防守正詮・池田豊後守(正泰)・池田久左衛門尉重成(知正)の名が見られます。
 将軍義昭政権から摂津守護を任され、歴代池田家当主の中では、筑後守勝正が、最高の社会的地位を得たいっても、逆に家中の財政状況が悪化し、様々な重責を担わされて疲弊する事実に直面していました。
 意見が大きく二つに分かれていた池田家では、各々その行く先についてどのように行動するべきか議論がなされていた事は、想像に難く無い事です。
 池田家の人々がこの事実を真剣に受け止めようとした時、もう一つの公的勢力であり、長期間京都を治めた実績を持つ、阿波国の三好家(三好三人衆)が、前将軍足利義栄の父を奉じて求心力を作り上げて、摂津池田家にも接近してきたようです。この時の三好家は、他にも大坂本願寺や和泉国方面、紀伊国方面、近江国六角氏、同国浅井氏、越前国朝倉氏、備前国浦上氏など反織田信長網を築く、用意周到なものでした。
 この動きを反映して、足利義昭政権にとって大変重要な摂津国の要となる池田家に、三好三人衆から調略が行われ、内訌に発展。当主である筑後守勝正は、本拠である池田城を追われる事となってしまいました。

池田氏家系図はこちら



イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

画像:池田知正

池田知正画像

画像:荒木村重

荒木村重像

画像:中川清秀

中川清秀像

イメージ:池田四人衆

池田四人衆

画像:池田氏連署状

池田一族等連署状

写真:白井河原古戦場跡

白井河原古戦場

「内訌直後の池田家当主」

←・→

「再び池田家同族の争い」

一覧へ戻る


▲ページのトップへ


呉江舎について個人情報の取扱い免責事項│ 


バナー:ホームページ制作の池田屋
当サイトは、ホームページ制作の池田屋が、
管理・運営致しております。
Copyright (C ) Ikedaya All Rights Reserved.