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<三好義興政権時代(永禄4年の事)>
河内国討伐を終えた三好義興は、父長慶などを伴って1月23日に上洛します。翌日、幕府を訪れて将軍義輝に新年のあいさつを述べました。この頃、義興も御相伴衆に加えられ、その社会的地位について父と肩を並べます。
更に、2月1日、将軍義輝から桐紋の使用を許され、三好家は幕府の一員としての扱いが深まります。
3月3日、義興はこの時の幕府への出仕で、将軍に対し、自邸への「御成」(訪問)を請います。間もなく幕府は、この請願を受諾し、同月末に京都の義興を訪ねる事を伝えました。
30日、将軍義輝は義興邸を表敬訪問しました。この時池田勝正は、池田家を代表して義興方の接待役の一人として参加していました。
将軍義輝は、午後2時頃、義興邸に到着。池田勝正は、伊丹・三宅氏などと共に辻警護をつとめ、また、接待役となって将軍一行をもてなしました。
これについては、「三好亭御成記」などに詳しく記されていますが、池田氏に関する部分を拾い上げると、勝正は将軍に太刀一振を献上し、「右京兆・御供家」として「(前略)御盃別して出し也。」とあり、細川右京大夫氏綱の御供として将軍から盃(酒)を下されています。
また、「東奥座敷拵え、池田・多羅尾両人呼び入れ、湯漬点心進め候。」とあって、再度右京兆衆として勝正などを呼び入れて湯漬でもてなしたようです。
宴の2日目、能や食事が行われ、間もなく宴会は閉じられました。この日、招かれた将軍からのお礼が下り、池田衆は「折五合柳樽五荷」を拝領しています。
かくして、作法通りに将軍の招待を終え、将軍との一体感を内外に喧伝しました。また、この宴に池田勝正が加わっていたというのは、三好家中での地位の高さも想像させます。
ちなみに、この義興邸の将軍御成のために建築作業を行う必要があったらしく、その奉行として池田丹後守教正があたっていたようです。教正は、その後キリシタン大名としても有名となりますが、この頃はどのような立場と所属で作事奉行として参加していたのかはわかりません。
しかし、今のところ、この池田教正の立場は、池田家の一員としての参加ではなかったかと個人的には考えています。
そして、三好氏による将軍招宴を受けて、これまで三好政権を乱す争乱の元となっていた細川晴元が、いよいよ三好氏に降り、5月4日、摂津国冨田の普門寺に入ります。
これは、将軍義輝から、晴元と和解するよう求められていたようで、宴の席でそれを受け入れた事によるもののようです。
しかし、この間に長慶の弟で讃岐国と和泉国を任されていた十河民部大輔一存が死亡します。この死についてはよくわかりませんが、一存が死亡したと考えられる4月23日の前後に、長慶やもう一人の弟、三好(実休)義賢の動きが見られます。
死亡後はともかく、その死の直前に長慶が一存の死亡の日と関係するような動きをしているという事は、予め予定した行動ができる状況だった事が伺えます。
しかしながら、一存の死は、三好家を支える柱の一つを失い、憂慮すべき事柄であった事は、まちがいありません。長慶は、直ぐに和泉国の有力者である松浦氏などへ対応を行っています。
そして5日、長慶は河内国飯盛山城内で連歌会を催しています。これは、一存追悼の意味でもあったのかもしれませんが、先例からするとやはり、政治的な意味合いが強かったようです。
この連歌会には、いつものように池田家から池田紀伊守正秀(池田四人衆のひとり)が出座して、歌を詠んでいます。
6月になると、細川晴元についての処遇を巡って、それに異義を唱える者の動きが活発化し、晴元と縁戚でもある近江守護家の六角氏が京都へ向けて軍勢を動かします。
実は、同じ頃に越前守護の朝倉義景が、若狭国守護の武田大膳大夫義統支援のために出陣していたのですが、これと呼応した動きでもありました。
その頃、三好氏の武将内藤宗勝(松永久秀弟同名長頼)が、国内の争乱で弱体化していた若狭国へ軍事行動を伴う策動を行なっていた事もあり、六角氏の出陣は、この事とも関係していたようです。
結果的に内藤宗勝は敗退してしまったために、反三好勢力が活気づく事となりました。7月に入ると五畿内とその周辺で挙兵が相次ぐ事となりました。
7月19日、畠山高政が大和国伊都郡方面へ出陣し、間もなく、和泉国方面へ達して岸和田城の攻撃を行いました。
同月、京都では、将軍地蔵山に六角勢が陣を取り、二万程の人数で京都市中を窺いました。この三面作戦が相乗効果を呼び、反三好勢は想定以上に勢いづきます。
双方は、この後10月頃まで膠着状態だったようですが、その間、両勢力が一触即発的に軍勢が対峙する地域では、盛んに禁制が多数発行され、緊張の高さを伺う事ができます。そんな中の9月9日、奈良春日社領摂津国垂水西牧南郷目代今西家が、関係の深い池田家に特別な祝儀を贈っています。
酒や饅頭・鯛・昆布などを池田勝正へ贈っているところを見ると、この年の3月に将軍義輝の接待役務めた事もあり、次の家督(惣領)相続人としての公式の披露などがあって、そのための贈物が今西家から勝正に、届けられたのではないかと考えられます。
さて、10月の下旬になると、反三好勢力の活動が活発となり、29日には三好(実休)義賢が、和泉国家原方面へ出陣して、畠山高政・根来寺衆勢に備えました。
翌月6日、三好義賢は家原から同国久米田へ陣替えを行い、敵に対応しています。
一方、京都でも三好方が軍勢を入れ、11月24日、将軍地蔵山の六角勢に備えます。この時、池田衆もこれに従軍しており、小規模な威嚇行動などを行ったりしているようです。
この後、再び、膠着状態となり、年越しを迎える事となります。
ちなみに当時、毎年暮に、年貢の記録を付けていたようなのですが、前述の今西家の「南都代官算用状」という年貢についての記録に、興味深い記述が見られます。
池田伊豆守六斗八升(年々未進也)、中河伊予守四斗(年々未進也)などとあります。「未進」とは、割り宛てられた税の未納を意味し、「六斗八升」がその具体的な額です。また、「年々」とある事から、複数年それが続いているようです。
そして、当時の記録である「南都代官算用状」に記載されている人物は、実在の人物と考えられ、池田家に「伊豆守」を称する人物が居た事となります。
同じく、中河伊予守も実在の人物と考えられますが、後に有名となる中川(河)清秀と中河伊予守は深い関係にあると考えられます。一族なのかもしれません。戦争の気運が高まる中で、年貢の徴集などの業務も行い、軍事行動も続ける年の瀬となった永禄4年でした。