中川清秀像
The picture of Kiyohide nakagawa
(個人蔵)
中川瀬兵衛尉清秀は、佐渡守重清の子と伝わり、摂津国池田で成人します。清秀の生まれは山城国や摂津国島下郡中河原村、同国有馬郡稲田城と諸説あってはっきりとはわかっていません。
清秀は、池田家当主池田筑後守勝正へ主に仕えていました。1571年(元亀2)と推定される摂津池田家から湯山年寄中へ宛てた、「摂津一族書簡」の中には既に清秀の名が見られます。
また、同年8月の摂津国島下郡郡の「白井河原の合戦」では、池田家中にあって、郡山(茨木)城主である郡平大夫、高槻城主の和田惟政の首級をあげたといわれています。池田氏の内紛等も経て、清秀は池田家中でも次第に有力な武将として名を知られていく事になります。
1573年(天正元)、柴田勝家の指揮下に入り、河内国「高屋口の合戦」では、遊佐信教の首級を上げる等の活躍を見せます。
他方、摂津国で勢力を急伸させていた荒木村重が、織田信長から同国の「一職支配」を任されるようになると、その有力武将として村重を支えて成長します。その時、新たに茨木城を与えられて旧領をも合わせると四万石を越える禄高となったようです。
1578年(天正6)、石山本願寺攻めの最中、荒木村重が信長から離反します。この理由として、清秀の部下が本願寺勢に兵糧を密かに流していた事が信長に知れて言い逃れができなくなったために謀反に至ったとの説が有名ですが、多分これは、足利義昭方となった村重方は、友軍となった本願寺方へ物資補給を行っていた様子なのだろうと思います。
その後清秀は、同じ家中の高山右近と共に、最初に信長の軍門に降って降伏します。村重の乱後、丹羽長秀、池田恒興等の指揮下に入り転戦しますが、本能寺の変では、いち早く羽柴秀吉の軍に協力を表明して合流します。
1581年(天正9)の「賎ヶ岳の戦い」でも秀吉に組して美濃口に着陣して、大岩山砦を三好秀次と共に守備します。四月二十日の早朝、敵将佐久間盛政の軍に同砦を急襲されて一千の兵で反撃しましたが、ついに力尽きて討死にします。この時清秀は42才でした。
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