池田筑後守勝正
Katsumasa Ikeda of the Ikeda family's leader.
室町時代中頃から後半にかけて、摂津国内最有力の国人に成長した池田家。その代表となった池田筑後守勝正ですが、その生没年は不詳で、今もその人物像は謎のままです。
しかし、おぼろげながら、その推定がなされていて、1530(享禄3)年頃の生まれではないかとも考えられています。没年は一部の系図に1578(天正6)年とするものがありまが、定かではありません。
勝正については、まとまって記された史料が、今のところありませが、勝正存命中と考えられる時代の史料にはその名や池田衆の事が頻出しています。
その詳しい事は別項に譲るとして、現在一般になされている勝正についての紹介は、史料から見た事実と違う点が多い(事実無根のものがほとんど)ため、それに相対させて紹介を進めてみます。
まず、当時の史料を見てみると勝正は自分で署名した文書には「勝正」と記していて、「勝政」としたものは、一通もありません。正しくは「勝正」です。
また、勝正の父は長正であるとされていますが、将軍・管領家すらもそうであったように、もしかすると別の家柄から「筑後守」を襲名した可能性もあります。「惣領として」との記述は確かに見られるのですが、今のところ、その一家相伝の可能性は確定的ではありません。
現在の相撲界や落語界のように、その地位へ就くに相応しい者が選ばれて、「筑後守」を名乗り、池田家の代表となったとも考えられます。ただ、当時と現代が違うのは、血の繋がりがある事が、必須条件ではあります。
そのため代表に選ばれた者は、その能力が低いわけは無く、どちらかというと行動的であった筈です。現在、勝正像として伝わっているような「無能」「愚鈍」の当主はまずあり得ません。
世は戦国時代。勝正は将軍義昭政権を守るべく、摂津守護を任される事となり、歴代池田家の中では最高の地位に就き、池田家の全盛期を迎えます。
しかし、逆に、早く複雑な状況変化が、家中の意志を惑わせ、不和を引き起こします。勝正は、家中での内訌に発展させてしまい、池田城内の城主館から去る事となります。
その後も幕府方として活動しましたが、その幕府も中心的人物である将軍義昭が織田信長との抗争に破れて(山城国槙木嶋城)、幕府は機能を停止させてしまいます。同時に勝正も活動の場を失い、最終的には、史料上にも見えなくなり行方不明となっています。
しかし、これは、足利義昭に加担する丹波国人波多野秀治に加担するために留まっていたのか、摂津国有馬郡小柿(現三田市小柿)に「伝池田勝正の墓」とされるものがあります。今のところ詳しい事はわかっていません。ちなみに、ここは丹波・摂津国境付近です。
いずれにしても一部の系図にあるように勝正は、晩年に九州へ渡って、彼の地で死亡したとするものもありますが、その可能性は今のところ低いように思われます。
参考: 兵庫県史、岡山県史、大阪府史、和歌山県史など私の読んだ全ての資料より
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