奈良春日社摂津国垂水荘南郷目代今西家
The Imanishi family.
鎌倉時代末期から奈良春日社領の摂津国垂水荘南郷(桜井郷(現豊中市)・榎坂郷(現吹田市))代官を務めていた今西家は、中世から近世に至までの記録が多く残る旧家です。その記録は「今西家文書」として摂津池田氏に関する記録も多い事で知られています。前述の代官とは、春日社領の目代(国司の代理をした地方官)で、いわゆる在地神人(じにん)という立場でした。今西家は派遣されて以来、代々在地の春日社領を維持した由緒ある家柄でもありました。
しかし、時代が下るにつれて、荘園は解体されていき、在地の土豪や国人などの有力者の結びつきを深めざるを得ない時代となっていきました。そんな中、摂津の池田氏も今西家とは深い関係があるようで、その関係を伺い知る事のできる記録も多く残ります。戦国時代の池田氏の当主や幹部とのやりとりもあったようです。以下は池田勝正からの今西家へ宛てた書簡です。
年代不詳(推定では1569年(永禄12))ですが、正月二十八日の文章として「見事の鯉送り給ひ候。旧冬も雁御意に懸けられ候。毎度懇ろの儀に候。委曲荒木志摩守申すべく候間、省略せしめ候。恐々謹言。池田八郎三郎 正月廿八日 勝正(花押) 今西宮内少輔殿 御宿所」という今西氏への礼状が残ります。
文中の荒木志摩守とは多分元清で、この後、荒木流馬術の始祖となった人物です。当時池田家でも連署状の上座に位置する重要人物でもありました。
また、御音信として「両種壱荷御意に懸けられ候。御懇切の段、申し尽くし難く候。委曲御使者申し候。詳しくは能はず候。 池筑 六月廿六日 勝正(花押) 今宮 御宿所」という文章も残っていて、かなり親し気な様子がわかります。この頃から池田勝正は池田家当主が代々用いた官称である「筑後守」を名乗り始めます。「池筑」とは池田筑後守を略したものです。
ついでに、吹田市の肱亘節氏蔵の今西家系譜写では、代々今西家に迎えた室の事が書かれてありますが、摂津池田氏から迎えている他に、森長可女(娘)、十河民部大夫一政女、日向守明智光秀女、三渕大和守藤英女など日本史上の著名な人物とのつながりも有ったようです。その今西家の威勢を伺い知る事のできる資料もあります。
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