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ページタイトル:摂津池田氏

池田氏の系図は四種現存しています。この系図はその中の、宮内省が調査したものの写しのコピーです。元の池田氏系図は大広寺に伝わっていましたが、今はその所在が不明となっています。
 1882年(明治15)頃に池田充正の墓塔と共に、その系図も備前岡山藩の池田家に引き取られました。同じ頃、明治天皇の発願によって忠臣楠公の調査が行われた際、大広寺所蔵だった系図も参考にされたようです。
 しかし、家系図自体は、その家に都合良く書かれたものが多く信憑性に欠けるというのが定説になっています。
 織田信長のような長い間研究された戦国大名ならある程度そのあたりもはっきりしていますが、いち地方国人となるとそうもいかないようです。難しいでしょうが今後の研究に期待するところです。
 そのかたわら研究は続けられていて、近年の池田氏研究では、系図中の藤原氏は池田氏と同一であることが確認されました。池田とは支配地域を言い、正式には藤原氏を名乗っていたようです。

参考サイト:紀氏のルーツ (空海を支えた柿本紀真済僧正を軸として)

摂津池田氏系図

孝元天皇(第八代) - 彦太忍信命 - 屋主人雄心命 - 武雄心命 -武内宿祢 - 真鳥宿祢 - 茲寐臣 - 直碌臣 - 小足 - 檻手臣 -大口臣 -國益 - 諸人 - 麿 - 飯麿 - 麿石 - 真人 - 國守 -真範 -(紀)長谷雄 -淑望 - 維実※1 - 維望 - 維貞 - 公貞※2 -泰貞(蔵人大夫号豊島冠者) -泰政※3 - 泰光(池田武者所,源頼政の甥) -望政(豊島冠者) -重望 - 時景※4 -景正※5 -

教依 (初代池田城主)
池田初代城主で九郎と言い、兵庫助後に右京進。北朝足利氏に属す。野間城主内藤右衛門尉満幸の娘が一度楠正行に嫁ぐが、正行戦死により満幸の許に戻る。教依はこの娘を娶る。

教正 (二代)
幼名多聞丸。池田十郎兵庫頭。楠正行遺腹の子佐正(三代)の成人を待って、五日市に築城。

佐正 (三代)
六郎と称す。この時山名氏清の乱が起り幕命により参戦これを破る。三ッ木柧の家紋と采地を賜る。

家正 (四代)
兵庫助を称す。足利道義に属す。明国の使者引見等に同行。

充正 (五代)
1428年(正長元)生まれ、筑後守に任ぜられる。池田城に三の丸、馬場、弓場を設く。応仁の乱で戦功あり、豊島・島下を賜る。大広寺を再建し、望海亭を建てる。また、近隣諸郷を押領して支配権を広げ、銭貸の貸付けを行い富裕を以て知られた家となる。1482年(文明14)没。55才。墓は大広寺にあったと云う。

恒元 (弟)
恒利(恒元の子)尾張に住む妻は信長の乳母。恒興(恒利の子)は信輝の名を賜る。美濃大垣城主となる。

貞正 (六代)
民部丞を経て筑後守。家督を継いだ後は、細川政元に属し、細川家の家督争いの時は細川澄元に属して、細川高国と戦う。篭城し抗戦するも落城し、同族郎党と共に1508年(永正5)5月10日自刃。

信正 (七代)
三郎五郎、孫八郎、久宗?、筑後守。懐妊中の母・弟と共に池田城を抜け、父貞正の首を東山に埋葬する。暫く有馬谷に隠棲する。細川澄元が勢力を立て直し攻勢に出ることに呼応。高国の拠点を攻めてこれを破る。豊嶋郡を賜る。池田城再建。

長正 (八代)
弥太郎、兵衛尉、筑後守。三好入道宗三の外孫にあたる。母は三好政長の娘。信正切腹の後家督を継ぎ、三好長慶の武将として戦い、摂州・泉州で戦功あり。旗 白地、紋 紅三木瓜、馬印 白野衾を用いる。

勝正 (九代)
長正の長男で、八郎三郎と称し筑後守となる。信長池田城攻めの時抗しきれず、人質を入れ降伏。しかし、本領安堵と三千貫の加増を得る。信長より伊丹城主伊丹兵庫頭親興、芥川城主和田伊賀守惟政と共に摂津三守護に任命される。後、池田城内にて騒動が起り勝正は追放される。上洛して足利義昭に仕えて後、三田の有馬則頼に寄食する。

知正 (十代)
長正の次男で勝正(九代)の弟。九右衛門、後、民部丞、備後守。信長の命により、石山本願寺攻めに出陣中に家臣の荒木村重に池田城を奪われる。神田の館に退居。本能寺の変後は豊臣秀頼に属した。

三九郎 (十一代)
知正には嗣子なく弟の光重から養子をむかえて後を継がせる。同じく豊臣秀頼に仕えるが、18才で病死。急遽、知正(十代)の弟光重が三九郎に替わり池田氏の家督を相続する。

光重 (十一代)
長正の三男、弥右衛門と称す。備後守。大広寺に知正・三九郎の肖像画と釣鐘、十石の寺領も寄進する。その他神田村の八坂神社などの本殿も寄進する。その後、身内の失態により官位と所領を没収され浪人の身となる。同年に徳川家康の大坂城攻めが有り、徳川方として参戦。有馬豊和の部隊に編入される。大坂城落城後は、光重の次男重長を伴って江戸に行く。光重は江戸で没した。子の重長も江戸に止まり池田家は江戸で血を繋いで行く。

- 貞長 - 貞重 - 興貞 - 貞彦 - 貞夫 - 貞一 - 貞瑞と続いて1874年(明治7)に貞瑞は嗣子無く没しますが、弟の東作が分家して子孫を残す。



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※1

母は美濃郡池田を領する本郷城主。平安朝後期、従四位下宮内光輔。池田姓を名乗り始める。

※2

母は、摂津多田荘の源満仲の子、頼信の娘。従五位下。摂州豊島に住む。

※3

源頼光四代の孫。馬場下野守伸政の四男。泰政は泰貞の養子。源姓を名乗る。

※4

尾藤景頼の子。紀姓を藤原姓(池田氏と同一と確認)に改める。

※5

五社神社(鉢塚古墳内)に石の十三重の塔を建立。


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