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ページタイトル:摂津池田氏
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三好義興政権時代(永禄3年の事)>
永禄3年1月、三好長慶は一人息子の義興へ家督を譲ります。長慶はそれまでの「筑前守」に代って「修理大夫」を任官し、「筑前守」は義興が任官します。
 また、長慶は将軍義輝の御相伴衆ともなり、三管領四職に準じる高い地位を得るまでになります。
 長慶は義興の後見人となり、息子を支える事となりましたが、長慶自身がより社会的身分を上昇させ、幕府の中心的人物の一人となった事で、三好家の支配体制も安定化させる事を指向しました。
 この事は、幕府の威光を借りた、三好氏の思惑が公然と通用してしまう事への懸念もあり、警戒する動きから、反発を招く事となりました。
 長慶のこの動きに端を発する事として、畠山高政の河内国追放が起きましたが、通念では、永禄2年の畠山高政と重臣の安見宗房の内訌を収めるために、河内守護家である畠山氏に協力して争いを鎮めたにも関らず、翌年には高政と宗房が、三好長慶に相談もせず和解して、敵対的な態度を取った事に腹を立てて河内討伐に至った旨の見解となっています。

しかし、資料を紡ぐと、そうではなく、長慶の畠山氏への介入が、高政の態度を硬化させたように思われ、結果、武力闘争に至ったように見えます。
 本願寺日記の1月18日の条に「昼より河内十七ヶ所、松山陣所へ樽遣わし候、」とあって、この時には既に三好方の松山某が畠山高政の守護する河内国で軍事行動を起こしています。
 また、3月には、幕府の名の下に十七ヶ所へ徳政を行って、畠山氏の影響力を削ぐ措置が取られています。そして、それを確かめるように、4月3日に三好長慶が同地に入って一泊しています。
 翌々日の5日、長慶は将軍義輝と面会し、河内国への軍事介入についての報告をしたようです。
 この一連の動きを受けて、畠山高政は重臣の安見宗房などと会談して、一致団結して三好方に当たる事で国の防衛をする合意に至ったようです。
 ですので、畠山高政と安見宗房などが長慶の同意無く勝手に和睦したというよりは、出来事の流れを見ると、長慶の動きに対する河内守護と国人の自衛行動と考えられます。

さて、幕府の名の下に発した河内討伐は、6月29日に河内国十七ヶ所に三好勢が集結した時から始まります。
 これには池田筑後守長正も、三好方として従軍していました。
 三好長慶と松永久秀、それに三好豊前守義賢(実休)を中心とする阿波衆が南下を始め、7月3日に若江城・玉櫛方面で交戦を行って勝利します。以後、7日に太田・若林へ、19日に剛林寺(現大阪府藤井寺市藤井寺)へ進み、8月6日には守護所であり河内国の本拠である高屋城の南側へ進んで包囲の準備を始めます。
 同月16日、石川郷(現大阪府富田林市富田林)で交戦があり、三好方が勝利。これを受けて31日には更に三好勢が高屋城に近づきます。
 9月9日、再び高屋城から打って出ますが、高屋城外で伊丹衆と交戦し、敗退。

一方、畠山方も機をうかがっては軍勢を繰り出して、三好方に打撃を与えようと懸命でした。
 7月22日、三好方が後巻きのために十七ヶ所へ陣取っていた一隊へ攻撃するため、畠山方安見宗房が飯盛山城から大窪(現大阪府守口市大久保町)へ出陣。しかし、安見方は敗退。翌日、出口方面(現大阪府枚方市出口)へ安見方が出陣して放火するなどして打ち廻りを行っています。
 8月14日、再び安見方は出陣し、堀溝(現大阪府寝屋川市堀溝)で池田衆と交戦。50名程が戦死し、敗退。この時、主たる武将が討たれてしまい、軍勢を統率できなくなる程の致命的な敗北を安見方は喫してしまいます。これ以後、畠山氏への応援が到着しても、呼応した行動もできなくなりました。
 この十七ヶ所方面に残った部隊は、飯盛山城やその北側の畠山勢力(交野(私部)城など)に対する備えと、後ろ巻きを兼ねた役割を持ち、また同時に、高野街道の封鎖なども行ったと考えられます。
 これがために、やはり、畠山勢は勢力を分断されて、組織的な軍勢動員による攻撃ができず、ゲリラ的な行動しか取れませんでした。大平洋戦争末期の日本軍の行動と似たようなところがあるのかもしれません。

さて、10月8日、畠山方の応援のため、香西元成などの丹波牢人衆が山城国南部の宇治五ヶ庄へ到着し、翌9日と10日には同国木幡(現京都府宇治市木幡)などを放火するなどしています。
 しかし、芥川山城に入っていた内藤宗勝が、これらへ軍勢を繰り出して対応し、制圧しています。
 また、畠山氏の救援のため紀伊国根来寺衆徒も500名程が高屋城の南方へ現れます。10月15日に交戦があり、根来寺衆徒は89名が戦死し、7名が捕虜となって敗退。

更に三好長慶は、大和国内へも松永久秀に軍勢をあずけて畠山氏に加担する勢力を攻撃していました。
 7月24日には、井上若狭守の居城(場所不明)などを落して制圧。長慶は、後背勢力にも対応する徹底ぶりでした。
 戦争の開始から4ヶ月が経過していましたが、三好方に抗する手立てを失って、進退極まったと観念した安見宗房は、10月24日に飯盛山城を開城。同時に三箇城などの支城もこの頃には降伏、または落ちていた事でしょう。これを聞いた畠山高政も戦意喪失し、その3日後の27日、高屋城を開城。
 高政・宗房などは牢人となり、堺へ落ちていったようです。この日、178年に渡って河内守護職を務めた畠山氏はその歴史を閉じる事となりました。
 将軍義輝は、10月17日、三好長慶を褒賞して労をねぎらい、慣例事項をこなしています。
 11月13日、三好長慶は、安見宗房の居城であった河内国飯盛山城に入り、芥川山城は義興の居城とさせます。
 また、この河内国畠山氏討伐の時、長慶は畠山氏に加担する大和国民の討伐と関連させて、同時に大和国内への勢力拡大も視野に入れていたようです。
 前年8月に長慶は、松永久秀を大和国内へ侵攻させて安見宗房方の諸勢力(城)を攻撃します。そして久秀は、この時大和・河内国境の要衝である信貴山城へ入って、ここを拠点として大和国内をも制圧する機を窺いました。
 再び永禄3年7月になると久秀は大和国内での大規模な軍事行動を起して畠山方勢力を制圧しました。11月13日に万歳城を、同18日、泊瀬桜坊城(場所不明)、同日24日桧ノ牧城(現奈良県宇陀郡榛原町桧ノ牧)を落し、支配地を拡大しています。更にこの時は、大和国内に勢力を伸長させていた伊勢守護北畠氏の影響力を断つための行動をも兼ねていました。
 この後、松永久秀は、大和国へも広く影響力を持つようになりますが、この時に「与力」した伊丹・高山などの国人は、松永派として定着し、また、これらの勢力は、大和国内で知行地などを得て、新たな関係が始まったようです。
 11月24日、将軍義輝が三好長慶の居城となった飯盛山城へ使者を送って、河内国平定の祝いの御内書を届けさせています。これを以って一応の区切りとなり、河内国畠山氏討伐は終了となりました。
 この三好氏の軍事力による河内国畠山氏討伐は、幕府の下に行われた公戦とはいえ、結局は、三好氏の支配地域と同じでした。これにより、畠山氏の支配する河内国全部と畠山氏に加担する大和国内など他国の勢力までも制圧して、支配下に置いた事で五畿内地域はほぼ全て勢力下とし、この時を以って最大勢力権を築くに至りました。

余談乍ら三好長慶が河内国になぜこれ程こだわったのかを考えてみると、もちろん「五畿内」といわれる地域に含まれた国を政治・軍事的に直轄支配する指向があったと思います。
 しかし、もう一つは、河内国内に鋳物師を生業とする集団が多く有り、それは日本全国でも有数の技術を持っていました。そんな優れた技術を手に入れる意図もあったかもしれません。優れた技術は、三好氏領内全体の技術の発展に繋げる事ができるからです。

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写真:河内飯盛山城跡

河内飯盛山城跡

写真:河内国三箇城跡

河内国三箇城跡

写真:奈良県生駒郡平群町の信貴山城跡

大和信貴山城跡

写真:若江城跡

若江城跡

写真:河内交野(私部)城跡

交野(私部)城跡

写真:河内岡山城跡

河内岡山城跡

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高屋城跡

写真:高野街道

旧高野l街道

写真:芥川城・芥川山城跡

芥川城・芥川山城跡

写真:河内国堀溝

河内国堀溝

写真:池田長正書状

池田長正書状

イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

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