伝池田勝正墓塔
The Katsumasa's grave.
兵庫県三田市小柿(こがき)地区には、池田筑後守勝正の墓と伝わる、五輪塔が2つあります。また、ひとつは三右衛門のものとも伝わっています。
まず、小柿の北東地域にある伝勝正の墓ですが「侍の墓」と言う事で知っている人もいますが、今では知らない人も多いようです。また、こちらは三右衛門(正茂?)の墓とも伝えられています。三右衛門*1は、池田久宗(三郎五郎)の孫ともいわれ、彼は荒木村重に仕えていたようですが、後にここへ落ち延びたようです。その間、紀伊国高野山に立ち寄ったらしい記録もあります。
また、三右衛門の墓の近くには、その館跡と言われる石垣も残っています。(冬期間、館跡にはイノシシ用の罠が仕掛けてありますので、許可なしで入山すると大変危険です。ご注意下さい!)
その侍が没してからは、同地に慈徳寺が建てられて、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたと伝わっています。侍の住んだ館の近くには、篠山に抜ける道がありその関係からここに置かれたのかもしれません。
ちなみに、このご近所には、この侍の墓に関係する家があり、刀や鉄砲などがその家に伝わっていたり、勝正に随伴してきたとの言い伝えもあるそうです。
そして、小柿の南西地域にある伝勝正の墓は、北東地域にあるそれよりも大きくて立派です。また、今のところ試掘等では確認されていませんが、この辺りに田中城があったとしばしば記録にも出て来ます。
さて、墓は元の位置から少し移動されているようです。今の墓の位置から山を十数メートル上がった所に寺があり、廃寺になった事から現在の地に移ってきたとの事でした。
また、このあたりは西と南に抜ける道が通っています。更に、これらの2つの墓は、対角線上にあり、相互に何か関係を持っていたかも知れません。
南西地域の伝勝正の墓の周りには、五輪塔の一部(大きなものが多い)やいくつかの五輪塔があります。これらも勝正と関係がある人物なのかもしれません。
大きさだけでは判断できませんが、小柿のものよりも大きくて立派な事から南西地域にあるものが勝正の墓なのかもしれません。
*1:宣教師ルイスフロイスの記した「フロイス日本史」に荒木村重とは親しい京都九条の住人で「三右衛門」という人物が記述に出てきます。もしかすると何か関係があるのかもしれません。
参考: 兵庫県史、岡山県史、大阪府史、和歌山県史など、私の読んだ全ての資料より
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