河内飯盛山城跡
The ruins of the Iimori castle in Osaka Pref..
河内国飯盛山城は、河内の中世史の枠を超えて、日本中世史を研究する上でも、避けて通れない程の価値を持つ歴史的遺物と考えられています。文化財としての活用が更に望まれる史跡です。現在はハイキングコースとなっていて、休日には多くの人が山歩きを楽しんでいます。
さて、この飯盛山城が史上に現れるのは『太平記』のようで、この付近の他の多くの城と同様に飯盛山城も南北朝の頃に創築されていたと考えられています。
その後、享禄年間(1528〜1532)頃に木沢長政が、この飯盛山城を本格的な構造の城に改修したようです。その後、1531年(享禄4)と翌年にこの城を守る長政が宗教勢力も含めて大規模に攻められ(天文の宗教戦争)ますが、これを守り抜いて史上に有名となります。しかし、その長政も1542年(天文11)に戦死すると、代わって河内守護畠山氏の城として、長く重要な役割を果たしました。
更に1560年(永禄3)に三好筑前守長慶が、摂津国芥川山城からこの河内飯盛山城に入り、ここを居城とします。同城が現在に残る大城郭に変貌するのは、長慶の入城によるものと考えられています。
永禄3年当時の長慶は、将軍義輝の御相伴衆に加えられるという三管領四職に準じる高い地位を得て、将軍(幕府)の重臣となり、また、五畿内地域を中心として、阿波・讃岐・播磨国・丹波などを治める大名となっていました。
ただ、河内・大和国の統制は不完全で、長慶の飯盛山城への移転はその対応を目的としていました。 この飯盛山城は、『日本城郭大系』によると「河内国と大和国の間は、生駒山地が南北に走り国境となっている。飯盛山は、その生駒山地の北西支脈に位置しており、城はこの支脈に築かれている。この支脈飯盛山は、東は滝谷によって完全に生駒山地と分離されており、生駒山地の半島の如き存在となっている。」と解説されています。また、「城跡は山頂に累々とその郭の跡を残している。この城跡から縄張りの基本プランを考えると、生駒山脈より別れた支脈の南北尾根に、まず一直線上に主郭を配し、それぞれの郭に2〜3の腰部を配し、これら南北に延びる主軸尾根から東西に分かれる尾根の各々先端部に郭を配している。」などと、調査結果も含めて紹介し、その特徴を詳しく述べています。
この飯盛山城は、地形状の制約で、河内平野及び大和山地から滝谷に対する防衛の弱点を、支城の設定で補ったと想定されています。また、城の周辺や重要な地域の有力者は被官化するなどして、人と城との関係をより強固にしていました。
西(河内国方面)には、岡山城(現四条畷市岡山)・三箇城(現大東市三箇)、北には清滝城(現四条畷市清滝)・茶臼山砦(現同市滝谷)・交野(私部)城(現交野市私部)・傍示(現交野市傍示)・鷹山城(現奈良県生駒市高山)、東(大和国方面)には田原城(現四条畷市上田原)・北田原城(現奈良県生駒市北田原城)・龍間城(現大東市龍間)、南(河内方面)には、野崎城(現大東市野崎)などを、本城である飯盛山城と連携させていたようです。
また更に、南北に長い生駒山塊の南端にある大和国信貴山城とも山頂伝いに連携させ、河内・大和両国を睨んだ要塞として活用していたとも考えられます。飯盛山城の標高は315メートルあり、北摂・河内南部方面へも十分視野が開けていますので、狼煙や鏡などを使っての連絡も可能です。
ちなみに、生駒山の西側の麓には、南北10キロメートル程の深野池へ流れ込む旧大和川が、山麓に沿って走り、それが天然の堀ともなっていました。また、その川に沿って高野街道が通っており、飯盛山城は水陸の交通の要衝でもありました。
そういった事もあり、城内では家臣の集住も行われ、また、城下町をも持って、統治上の最重要拠点としての機動力も確保されていたようです。 そんな、河内飯盛山城も1576年(天正4)に織田信長に攻められ、遂に廃城となったとされています。しかし、前述のように、軍事的に非常に重要な場所ですので、その後も何らかのカタチで利用されたと考えられます。
<参考>
言継卿記、本願寺日記、私心記、多聞院日記、大阪市史5(史料編)、四条畷市史、枚方市史(史料編)、交野市史、寝屋川市史3(古代・中世史料)、八尾市史(史料編)、大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)、奈良県史11+18、織田信長文書の研究、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、日本城郭大系12、日本城郭全集9など
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