河内高屋城跡
The remains of the Takaya castle.
河内国高屋城(現羽曳野市古市)は、築山古墳(安閑天皇陵)を主郭とする河内国守護の居城で、政治・軍事の中枢を担う場所でした。城の東側を流れる石川や城の周辺にある無数の古墳を支城として機能させる要害でもありました。
城の興りは、どこも定かではないのですが、この高屋城も例に漏れず不明です。しかし、応仁・文明の乱後の15世紀後半からは、科学的検証を確実にしているようです。通説では、南北朝内乱期に城として利用され、応永年間(1394〜1428)に畠山基国が築城したとされています。但し、この築城から室町時代中期頃の高屋城の概念は、その周辺にある誉田・古市要害との区別が明瞭ではなく、織田信長が攻め落とした高屋城そのものとは断定し難いようです。
さて、河内国は南北に非常に長く、国内には争乱が多く、守護職を巡る同族間の家督争いも常にあり、政情は中々安定しませんでした。このような状況が、その城の興りから約200年間に及び、その混乱に終止符を打ったのが、信長でした。高屋城は、その最後を迎える頃には、国内を侵食され、高屋城周辺だけに影響力を残すのみとなっていたのですが、数百年の歴史を経ている城は、要塞のように堅固となっていて、信長もこの攻落には時間をかけて、その策を練ったようです。
戦国時代も後半の永禄年間(1558〜1570)頃から、この高屋城に摂津池田家も出陣しています。1559年(永禄2)、管領細川右京大夫氏綱衆三好筑前守長慶が、畠山高政の家中内訌に介入。これが更に深刻化し、翌年、畠山氏討伐を幕府として行う事となり、長慶を中心とした幕府軍により河内は平定されます。この一連の河内出兵に池田家も従軍し、活躍します。
時代は下って、元亀年間(1570〜1574)、第15代室町将軍足利義昭公認の河内守護畠山昭高支援が行われましたが、信長勢も交えて摂津守護池田筑後守勝正も出陣しています。
穿ち過ぎかもしれませんが、信長に象徴される新概念に立ち向かい、劣勢に立たされた室町幕府守護などの要人は結束しますが、復権叶わず、没落の道を辿ってしまいます。
この時は、日本国中の国を超えた結束で、信長に対抗する事を試みますが、その多くが室町幕府体制の崩壊と運命を共にし、摂津池田家も新体制で新たな時代を迎える事になりました。
<参考>
日本城郭大系12、足利義昭(人物叢書)、三好長慶(人物叢書)、戦国三好一族、信長公記、戦国歴代細川氏の研究、畿内戦国期守護と地域社会、言継卿記、本願寺日記、大阪府史4、羽曳野市史4、柏原市史4、藤井寺市史4、松原市史3、河内長野市史5、八尾市史(前近代)、大阪狭山市史2、門真市史2、枚方市史6、伊丹資料叢書2(中世史料)など
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