池田四人衆
The Yonin-syu.
いわゆる家老のような役割を持っていたと思われる「四人衆」と呼ばれていた集団があったらいい事は、史料にも度々現われます。四人衆は摂津池田家総領(当主)の代行なども時には果たし、重要な決済などを判断して、池田家の中枢を担う人々だったようです。室町時代末期では近世と違って、「家老」という、どの地域でも共通の呼称はなく、役割は同じでも、それぞれ違った呼び方をしていたのだろうと思います。ですので、摂津池田家の場合は四人衆というのが、いわゆる家老にあたるものだったようです。
さて、この四人衆とは、いつ頃から組織されはじめたのかはよくわかっていませんが、個人的推定ではありますが、史料では1545年(天文14)11月27日のものが初見と思われます。その時の池田家当主は筑後守信正(久宗)で、ちょうどこの頃は池田家の版図も拡がりを見せていた事から、そういった代表者(総領)の補佐役が必要になっていたのだろうと考えられます。
その後、総領が信正から長正、勝正へと替わっていきますが、それぞれに四人衆がその補佐役を務めたようです。しかし、家系(流派)によるものか、総領の就任を巡っては常に四人衆の誰かが粛正(血の)されている事が、史料の時間的流れからも見られ、それほど四人衆は池田家中の政治バランスの「要」ともなっていた事がわかります。そして、総領が勝正の頃、四人衆としては最後を迎え、その解体が実質上、池田家の崩壊とも言えるものとなりました。
1570年(元亀元)6月19日、四人衆の内二名が何者かにより殺害されます。池田豊後守(正泰?)・池田周防守正詮(荒木村重一族という)が討たれて、これが内訌へと発展。総領勝正は池田二十一人衆といわれる有力者集団などに拘束された後、追放となります。
残る、池田十郎次郎正朝と池田紀伊守正秀(清貧斎一狐)は、荒木村重を四人衆(この時は都合3人だったらしい)の列に加えて、池田家の主導権を握ります。この後、池田家は三好三人衆方として、幕府・織田信長に敵対します。
更に後、幕府と信長が不仲となり、これに連動して池田家は再び分裂し、遂に解体となってしまいました。
今見るとこの歴史は、四人衆という池田家執政が、力を持ち過ぎた悲劇のように見えます。
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