見出し:池田氏関係の図録
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写真:池田丹後守教正池田丹後守教正
Norimasa Ikeda.

池田丹後守教正については、戦国時代の人物事典の類いには、だいたいのところ収録されています。
 しかし、永禄年間後半頃から史料上に現れている部分をなぞられているのがほとんどで、詳しくはわかっていないのが実情のようです。特に三好義継の家老のような重臣から若江三人衆の筆頭として活躍し、キリシタン武将としての動きが取り上げられています。
 この教正について、研究者の著書などでは摂津池田氏の一族であろうと推定されているものがほとんどですが、個人的にも教正は、摂津池田氏に関係するのだろうとは考えています。しかし、今のところ明確なその接点を探しているところです。
 おぼろげながら、摂津池田氏の関係を見い出してはいるのですが、まだ、自信はありません。以下、教正について見つけた史料を少し紹介します。
 1561年(永禄4)3月に三好義興が主催して将軍義輝をもてなした時の史料に作事奉行として現れます。また、この時、池田勝正も辻固め(警固)役に名を列ね、更に勝正と多羅尾氏は、共に将軍義輝の御座に呼ばれて盃を受けて、役の労いを直々に受けています。
 続いて1564年(永禄7)5月頃に、河内国飯盛山城にて多数の武将がキリスト教に帰依したとの記録に現れています。この頃から以降、教正はキリシタンの中心人物として宣教師の記録にはよく登場します。
 更に1566年(永禄9)6月、松永久秀方として摂津国越水城に篭城して三好三人衆方抗戦したとしています。この後しばらく、史料上では教正の記述は見られなくなっているようです。
 次に現れるのは、1573年(天正元)3月※1、北河内牧郷(大阪府枚方市)惣中に宛てて河内国八尾での普請のために働くように三好義継の命令を出しています。まもなくの同年11月、教正は同僚の多羅尾綱知・野間左吉などと共に河内国若江城を囲んでいた織田信長方に通じて義継を自害に追いやってしまいます。この後以降は、若江三人衆の筆頭として、盛んに史料に登場するようになります。
 そんな中で、ちょっと気になる史料があります。1574年(天正2)4月11日付けで、教正が栗山佐渡守という人物に下河内橘料所の二十石の知行を認めると安堵状を発行しています。栗山佐渡守は荒木村重の被官らしく、摂津国尼崎を中心とした人物だったようです。また、文末には、「忠節が肝要」とも言っています。両者は、何らかの上下関係があったらしい事が伺えます。

 さて、このような史料を見ていて個人的に想像しているのは、教正は摂津池田氏の奉行などとして、三好長慶の居城飯盛山城などの池田家屋敷に入って、物理的には池田を離れた。永禄8年10月頃の三好家の内訌時、利害などの関係から池田家を離れて独自に活動。そして、室町幕府将軍義昭の亡命による近畿政治の変化の中から台頭した村重が巨大になり、その村重に復帰する事となったのではないかと考えています。
 これは、教正が摂津出身の池田氏であればこそ、摂津の守護である村重とは結びつき易かったのではないかと思います。縁故の関係があったのだろうと考えています。これが河内や和泉など他の地域出身の池田氏であればやはり、これ程早い展開で両者が結びつく事は難しかっただろうと思います。
※1:史料では年記を欠きますが、その特定は個人的推定に依っています。

<参考>
大阪府史4、八尾市史(前近代)本文編、四条畷市史、枚方市史6、
河内長野市史1、堺市史1、日本城郭大系12、足利義昭(人物叢書)、三好長慶(人物叢書)、戦国三好一族、戦国合戦大事典6、畿内戦国守護と地域社会P260、信長公記、群書類従、細川両家記、フロイス日本史3など

2009年10月7日:編集


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