見出し:池田氏関係の図録
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写真:摂津国芥川山城跡芥川山城跡
The remains of the Akutagawa castle.

1568年(永禄11)10月2日、織田信長勢5万により総攻撃を受けて池田城は落城します。唯一北摂地域で激しい抵抗をした池田家でしたが、思いのほか厚遇されます。
 その礼として落城の翌3日には、池田家の代表として勝正が信長の逗留する芥川山城へ訪れます。信長は芥川山城に14日間滞在しましたが、その間に訪れた貴族や武将、有力商人は大変多く、門前市を成したと言います。勝正もそのひとりでした。

 これより前、信長が畿内へ入り席巻するまでの芥川山城は、摂津(近隣)支配の要衝として、更に前は名族芥川氏の本拠として知られた城でした。
 芥川山城は、その名の通り芥川氏によって築かれたものです。芥川氏は、一般的な土豪と違い、庄園や国衛領を持たず、芥川宿を根拠として成長していったと考えられています。鎌倉時代初期には幕府の御家人となった非開発型の武士領主でした。芥川氏は興味深い氏族です。
 そうして、芥川氏は次第に勢力を強め、それにともなって屋敷を拡張、城郭へと整備していったと考えられています。また、芥川城は2つあり、西国街道に沿って確認されている芥川城と高槻市原地域にある芥川山城(写真の石垣は芥川山城のもの)です。

 この芥川山城は、先の芥川城とは築城者が違い、細川高国よって1515年(永正12)頃に築かれたと考えられる城です。そして、次第に両城は機能が分かれ、西国街道上の芥川城は平時の居館として、山城は有事の要塞として使用されていたようです。
 芥川山城は、時代により盛衰を繰り返しますが、次第に拡張されて三好長慶がこの城に入った時、最盛期を迎えます。城は東側以外、芥川(これは川の名前)がぐるっと山裾を包む天然の要害です。長慶は、この芥川山城を摂津における拠点として、ここから各地へ出張しました。
 池田氏も三好氏の傘下で活躍し、様々な場所に転戦します。また、政治的にも緊密な連絡をとりあっていただろうと思いますので、池田氏などの国人は頻繁に出入りしていただろうと思います。

 1563年(永禄6)三好長慶の実子、義興がわずか22才で芥川山城に没し、そして三好家分裂の後には、三好長逸が同城に入っていました。ちなみに、義興の急死は当時から松永久秀によるものだと噂されています。
 そして、時代は急旋回し、織田信長の畿内制圧後は信任を受けた和田惟政が、間もなくその下臣の高山飛騨守(高山右近の父)が入ります。また、芥川山城は1573年(元亀4・天正元)頃、高山氏が高槻城主になると同時に放棄されたと考えられています。60年に及ぶ歴史を閉じました。この芥川城・芥川山城に関わる人物に池田氏は、浅からぬ関係を持っており、60年間の芥川山城の存続にも何らかの関わりがあった事でしょう。

 また、日本城郭大系12では、「芥川山城の実態解明は中世城郭を研究する者に課せられている急務であり、その完全な保存は、文化財行政に携わる者の要務」と書かれていて、大変貴重な城郭となっています。私も同感で、近畿、特に大阪に残る中世城郭の破壊には心を痛めています。芥川山城には当時を偲ばせる遺物が今も多く残り、芥川城にも碑が建てられています。お時間があれば是非お訪ね下さい。


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