高野街道
It existed the Koya road in the Age of the Warring States.
戦国時代の摂津池田家では永禄年間頃、池田長正やその跡を継いだ勝正等の総領(どちらも筑後守)時代に、頻繁な大和・河内国への軍事行動を行っています。もちろん、軍事行動だけではなく、所用などでも利用されていたと思います。特に、1560年(永禄3)に三好長慶が飯盛山へ本拠を移してからは、日常的に利用した事でしょう。
さて、当時の河内国は今と地形が違います。生駒山系の南端から出る大和川が北へ流れ、その先で湖をつくっていました。深野池と呼ばれているものですが、現在の門真・大東・東大阪市をまたぐ南北に10キロメートル程の大きなものでした。そしてまた、河内国を南北に分割するように大きな川も流れていました。
そしてこれらの複合的な流れが生駒山系の麓で溜まって湖となり、生駒とその河川と湖の東淵を高野街道が南北に走っていました。高野街道は、西・東と分かれて呼ばれ、高野街道は、今の大阪府交野市から南へ向かい、現八尾市大竹というところで、東高野街道と名を変えます。そして更に南下して現河内長野市から、また高野街道となり、更に南へと伸びます。最終的にはその名の通り、和歌山県高野山に通じている街道です。
そしてその頃、その河内国には、若江城・飯盛山城・高屋城の拠点となる3つの城が北・中・南地域の要所に構築されていました。
南北に非常に細長い地形を持つ河内国は、南北に移動しようとする際には、中央部を通る枚方(河内)街道や高野街道を利用するしかありません。織田信長、荒木村重等々歴史上の様々な人物も、この高野街道を通った事でしょう。
ふと見れば、狭い昔の道ですが、そんな事を考えながら歩くと色々なものが目に新鮮に映ります。写真は、飯盛山近くを通る高野街道です。
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