河内堀溝合戦
The battle of Horimizo.
1560(永禄3)8月14日、河内の国「堀溝」(現寝屋川市堀溝)というところで、時の管領細川氏綱に属する三好修理大夫長慶の被官として従軍していた摂津池田衆が、敵と交戦し、撃退するという手柄を立てています。
この頃、長く混乱していた幕府政治がようやく正常化に向かっていたのですが、河内守護である畠山高政が、幕府に協力せず、これを討伐するとの目的で、長慶が大将となって出陣していました。
この出陣は6月中頃から始まり、同月29日、河内国内の「十七箇所」という場所に諸勢が集結し、池田衆もこれに合流。南北に長い河内国の真中にクサビを打つようにして、幕府の軍事行動が始まりました。
幕府勢は、大軍を以て河内討伐を行っていたため、軍勢を二つに分け、その内の一つは南下し、河内高屋城を目指しました。もう一方は、十七箇所に留まり、北河内の中心である飯盛山城の敵に備えていました。池田衆は、この十七箇所の幕府勢に従っていたようです。
当時の地形は現在とは違い、大坂方面は湿地が多く、更に深野池(ふこのいけ)という大きな湖がありました。生駒山脈に沿うようにして、南北10キロメートル程の大きさがあり、北からは古川・寝屋川、南からは玉串川・恩智川など複数の川が流れ込み、更に西へ大河となって流れ、大坂湾に注いでいました。深野池はいわば、自然の遊水池のような機能を果たしており、大雨が降れば頻繁に水害の被害を出していました。後の江戸時代、大和川の新設によって深野池は消滅しますが、大坂の地形は長い間、こういった湖・河川・湿地で構成されており、その反面で水運が発達していました。
さて、そんな中、高政は幕府に対して抗戦の構えを示し、このような河内の地形を巧みに利用して防備を行いました。北の飯盛山城には安見美作守宗房を中心として守らせ、南部の高屋城には高政が入っていました。
8月14日、堀溝の漁村へ高政方宗房勢が出陣。これを池田衆が迎え撃って交戦となります。結果は、宗房勢の内五十名程が戦死し、敗走。池田衆の勝利に終わりました。この大将は池田出羽守とも池田兵庫とも伝わっていますが、どちらの人物についても詳しくはわかりません。当時の池田家中には、役割分担を行い、必要に応じて奉行人を設けていたと考えられますので、あるいはそういった人物なのかもしれません。
堀溝という集落の立地は、深野池北部寝屋川沿いの左岸に位置し、東西に走る清滝街道も持っています。こういった街道を使って、十七箇所に陣取る幕府勢に打撃を与えようと宗房勢は、出撃しますが、事態の打開はできませんでした。実は、これが二度目(一度目は守口大窪)の大掛かりな攻撃で、二回共に失敗しています。
10月24日、飯盛山城の宗房は城を開きます。その3日後、これを聞いた高政は高屋城を開城。これにより河内討伐は終わり、代わって長慶が河内飯盛山城に入って、京都を含めた近隣諸国の統治を行い、彼の全盛時代を迎えます。
※写真は2002年に撮影した堀溝の旧集落です。
参考: 狭山市史2、藤井寺市史4、柏原市史4、門真市史2、
枚方市史6、大阪府の地名1、日本城郭大系12、
戦国期歴代細川氏の研究、戦国三好一族、三好長慶など
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