見出し:池田氏関係の図録
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写真:河内交野城跡交野(私部)城跡
The remains of the Katano castle.

1572年(元亀3)4月16日、摂津守護池田筑後守勝正は、交野へ着陣しました。幕府・織田信長が総勢二万余人で、三好三人衆方松永久秀・河内守護三好義継勢などを攻めました。この時、交野城は安見新七郎(直政の子)が、幕府・信長方として防戦に努めていました。勝正勢などはこれを救援するために出陣したのでした。
 この交野城(現交野市私部)は、東西に延びる丘陵上に立地しています。今も旧態をよくとどめており、大変貴重であると云われていますが、その興りは、南北朝時代に遡ります。交野城は、安見氏によって築かれたとされています。安見氏は、河内守護となった畠山氏の家臣となり、次第に重責を担うようになります。そんな中で安見氏は、代々北河内地域で勢力を保ちます。
 交野城は、南北に長い河内国の北端部にあり、三方は山と丘陵で、開けた一方には淀川が流れています。また、僅かに西南にも通路のように狭い平野部があり、これが河内平野の中央部へ続いています。このように交野地域は城館を構えるに好都合の場所だったとも思えます。
 また、交野は奈良・京都へも近く、陸上・水上交通の要衝としての条件も備えていました。河内の北部のカナメ的な存在ともなっていたようです。
 1572年(元亀3)4月、池田勝正は幕府・信長方として抗争の絶えない河内地域の討伐のために出陣。
 そして翌年、将軍義昭が京都を追われて、室町幕府機能が停止。次第に幕府に加担する勢力は淘汰されて、安見氏の居城である交野城は、織田信長の命令で1575年(天正3)に廃城となったようです。
 ちなみに交野城には天守らしきものがあったらしく、旧字名で「天守」といわれる場所もあります。そのあたりが城の中心地だったようです。

<参考>
大阪府史、枚方市史、交野市史、吹田市史、信長公記、木津町史、戦国期歴代細川氏の研究、三好長慶(人物叢書)、戦国三好一族、明智光秀(人物叢書)、日本城郭大系12など


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