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写真:奈良県生駒郡平群町の信貴山城跡大和国信貴山城
The ruins of the Shigisan castle in Nara Pref..

信貴山城は、あの有名な松永弾正久秀終焉の地としても知られています。同城は大和国生駒郡(現奈良県生駒郡平群町)にあり、標高433メートルの山地にあります。
 『日本城郭大系』によると「信貴山城のある場所は、河内との国境、高安山とは1キロメートルの山続きで、東の平群谷・南の大和川沿いの龍田越、北の生駒山十三越とほぼ等距離にあり、大和・河内両国を合わせ支配するのに絶好の要衝である。」と紹介されています。
 中世城郭の常である、その創築からの変遷は不明のようですが、前記のような立地のため早くから着目され、当時の史料などから南北朝内乱以降の利用が想定されています。
 そして本格的な築城の始まりは、1536年(天文5)に木沢長政からで、その後1559年(永禄2)に松永久秀が入ると大規模な城郭に発達しました。また、その過程で久秀は、信貴山城の支城も整備して、近世概念を体現した堅城に更新していたようです。
 西には高安城(現奈良県生駒郡平群町)、東には西宮城(現同町西宮)・三里城(同町三里)、南には立野城(現同郡三郷町)・龍田城(同郡斑鳩町)・岡城(現奈良県香芝市畑)・七郷山城(現同市上中)・片岡城(現北葛城郡上牧町下牧)・二上山城(現同郡当麻町)などを一体化した運用を行っていたと考えられます。
 更に、信貴山城から生駒山塊の山頂を伝えば、その北端にある飯盛山城とその支城とも緊密に連携が取れ、まさに大和・河内国境を睨む要塞を構成する南の拠点となっていました。

<参考サイト>
松永弾正の城・信貴山城跡(私本 新大和軍記)
幻の大手口か・信貴山城跡(同上)
戦国の梟雄 松永久秀

<参考>
多聞院日記、本願寺日記、私心記、言継卿記、奈良県史11+18、奈良市史
、木津町史(史料編)、枚方市史(史料編)、八尾市史(史料編)、柏原市史4(史料編1)、大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)、河内長野市史(史料編1・2)、斑鳩町史(続史料編)、織田信長文書の研究、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、奈良県の地名、日本城郭大系10、日本城郭全集9、大和川流域と高安山、戦国合戦大事典など

2010年1月29日:記
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