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<有力武士の城下集住>
2005年現在、公的な検証が行われていないので、個人的な想像の粋に留まってしまうのですが、現在より通信事情が悪い中、一刻を争うような情報が多い時代にはやはり、情報が得られやすい環境を整えるのが普通だと思います。
現在の電話といった通信機械やシステムが無い中で、情報を早く正確に伝える方法は、やはり戦国時代といわれている当時としても、最新の方法と道具を用いて工夫していたはずです。
また、やむを得ず遠い場所では出先機関を、また、必要な場所には力の及ぶ限りにその要素(人や物・システムなど)を一定地域に集めたのだろうと思います。特に城郭史の分野では、室町時代にはそれが不完全な形で、身分の関係なく重要人物が散住していたという見解が、学術的に示されています。
しかし、不完全とはいえ、一定地域(何らかの方法で囲まれた地域)に集住していた事には違いありません。それは、できるだけ距離の近い場所に居た方が、便利で、効率がよいからです。
摂津国内でも有数の国人であった池田氏の居城池田城にはやはり、そういった活動があったと考えても不自然ではありません。
それから、自然な事として、当時の移動手段の一つであった馬や牛(主に輸送手段として)などの保留場所についても、城内には必ずあった事でしょう。しかし、そういった観点は公的な思索は無く、今のところ、発掘調査結果にも見当たりません。
他方、こういった事を維持するには、金銭的な面はもちろん、多くの人材をかかえていなければいけないはずです。何しろ、伝達のための機械がないわけですから...。また、正確に情報を伝えるための基本的教育というものもなければ成り立ちません。「読み書き」です。それらは、寺の教育システムが有効的に働いたのかもしれません。
地域の有力者となった池田氏を中心として、こういった様々な要素が附随して、自然と派生し、城下は次第に大きくなっていたのだろうと思われます。そういった流れの中で、人も物も池田を中心として引き寄せる力となります。
さて、史料上でから見ると、室町将軍足利義輝が政治的な状況変化で居所を移す時、有力な者をともなっており、各々屋敷なども同じく付属している様子が見られます。
また、京都を中心とした五畿内地域を中心として近隣諸国約九カ国を治めた三好長慶が、京都周辺などに城を持つ際にも有力武将の屋敷を付属させていたとの記録が見られます。池田氏もこれらの場所に奉行人などを常駐させ、屋敷等を持っていた事は十分に考えられます。
後に名を高める池田丹後守教正は、長慶方との関係を深くした摂津池田系の武将かもしれません。
更に、摂津守護となった荒木村重が、伊丹に有岡城を築いたとされる頃の史料にも、高山右近の屋敷を内包させていたとの記述が見られます。
池田城域の中でも、家臣の屋敷があったと公的に推定されている場所があります。城主の屋敷がある主郭から堀を隔てて東から南側にその地域があったらしいといわれています。ここに池田四人衆や池田一族衆、荒木村重などといった主要人物(武将)の屋敷が集まっていたのだろうと考えられています。
城には日々、様々な情報が出入りする中で、全体として合意が必要な場合には、会議などを行っていたのでしょう。また、伝えておかなければいけない事は回覧され、個々に必要な場合には、担当者(奉行)がその対応と処理を行っていたようです。
こういった意思疎通は、現代と何ら変わりません。昔も今も社会の中で個人が生きる限り、全く同じなのです。違うのは機械の数とその仕事量の多さ(これが決定的要素ですが...)だけです。つまり、媒体が人間(時には紙も)か機械かという違いだけです。
池田城下には、城主の政治的動きに一番近い武将が集住し、その役割に応じた人物の重要度が、身分となって区分された居住形態があったのかもしれません。また、そういった人々と繋がりの深い地域が、池田周辺などにあり、それらの場所とも常に政治的・軍事的に繋がりを持っていたと思われます。
→池田城調査報告書について