荒木摂津村重像
The commander Murasige Araki
(伊丹市立博物館蔵)
摂津国人池田家に仕えた荒木氏は、丹波国多紀郡波多野氏一族の出自(実際に丹波地方には荒木氏関連の古城等が多く残る)という説があります。
その荒木氏から出たの村重の出自も諸説あって定説がまだありません。また、池田城下にあった満願寺屋という酒造家に関係するとも伝わっています。
伝承では、摂津国川辺郡栄根村(兵庫県川西市)を根城として、荒木高村(義村)が池田勝正に仕え、また系図などで、村重は高村嫡子とされています。
史料からは、村重が勝正の重臣であった事はハッキリしており、勝正が家を出た1570年(元亀元)6月の内訌後も池田家重臣として「池田一族連署状」の中で「池田信濃守」と署名しています。
それ以降は、再編された池田四人衆(実質は三人衆)として活動しており、その後間もなく、三人衆も分裂して争いとなります。村重はその争いに打ち勝って、天正2年頃から池田家から独立し、摂津国内で台頭の速度を速めます。
そして村重は次第に織田信長にも重用され、摂津国一職を伴う「摂津守」の官位を得ます。織田家中では同じ新参の羽柴秀吉とよく気が合い比較的仲が良かったよとも言われています。また、村重は茶道にも秀でて「(たぶん)利休七哲」の一人でもありました。
しかし、順調に見えた村重の出世は、信長政権からの離反(明智光秀関与の説もあり)によって事態はにわかに旋回します。
村重は、摂津国全体、いわゆる惣国内において自身が築いた有岡城を中心に篭城し、足掛け2年の総力戦的抵抗をしましたが、遂に陥落。
頼みの本願寺・毛利氏などの連携勢力は、相互に補完する程の状況ではなく、織田勢により各個包囲されて追い詰められ、連絡と補給が断たれていましたので、どうにもできませんでした。
そして、村重本人は、日に日に悪化する戦況を挽回しようと毛利方に直談判をするために城を出たところ直ぐに有岡城を落とされてしまいます。
村重は家族、一族郎党を全て失い悲嘆に暮れていましたが、晩年は豊臣秀吉に利休宗匠として召し抱えられました。
天正14年(1586)6月20日没、51才(推定)と伝えられています。
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