中世武将の情報伝達
A Samurai's general communication in the medieval period.
室町時代末期頃の通信事情について、個人的に興味を持っています。現代と違って、電話・無線も無ければ、共通規格(これそのものがないかあやふやな規格)の道路、郵便のような連絡システムもありません。
それに加えて、方言という地域感覚・地域特有の教育があり、「共通認識」というものが今よりも得づらいという側面が室町時代末期頃にはあったと思います。
同じモノを見ても、ごく狭い、小さな範囲でしか共通の認識を得られ難くかった(維持できなかった)のだろうと思います。日本の国土を見た時、これほど自然環境の変化に富んでいれば、食べ物や道具など「日常」が随分と違いますから、情報の受け取り方も多少、違いが出てくるのは自然かもしれません。
この「意思疎通」を行うためにはやはり、話す他に、文字と絵による基本的要素での伝達をあげる事ができるでしょう。しかし、それをやり取りできるようになるには、その要素と技術(文字及び文章力など)を身につける必要があり、究極的には、その技術に優れた人材も必要だった事でしょう。
また、戦時には、確実性と速報性も備えなければならず、狼煙や旗・鏡などにより、ある決まりに沿った規則性(テレグラフのような)での情報伝達システムも存在していたと思います。
そのため、室町時代末期頃の池田家中では、この「情報」についての労力は相当なものだったろうと思います。情報伝達に必要な人・モノ・事(システムなど)とその維持管理を全て自前で用意しておかなければならないからです。
池田家中の代表者は「筑後守」を名乗り、城主でもありましたが、その人には家の代表たる情報が内外から頻繁に行き来していたはずです。当然、筑後守はそれに対して、様々な対応を行っていた筈ですし、また、これを補佐すると考えられている「四人衆」という集団もありました。
筑後守は、案件各々に対応する人選を行ったり、伝令としての人材や「忍び」なども多数用意していた事でしょう。また、それに伴う文書作成なども頻繁に行われていたと思われます。
室町時代末期頃の池田家が、自己の権利や利益を守るために、様々な情報伝達を行っていた事は、ごく普通に考えれば、当然の事だと思います。この事は、「池田城」を考える上でも、「池田氏」を考える上でも重要な要素であると考えています。
参考:戦国のコミュニケーション、戦国三好一族、
百姓一揆とその作法、戦国の作法、視覚の科学、イメージ生産の技術、
錯視と視覚美術、イメージ(Ways of Seeing)、視覚のトリック、
写真と社会、写真の新しい読み方、生活過程の社会学、
社会学、「近代」の意味、風土と歴史、心理学など
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