摂津池田家家老
The chief retainers were in the Ikeda family.
時期がはっきりしないのですが、荒木村重が摂津の支配を委ねられ、摂津を席巻する前後の池田を記録したのかもしれない、興味ある記録があります。「穴織宮拾要記 末」に、「一、 今の本養寺屋敷はハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、 家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、 家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル(後略) 一、 家老甲?伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、 上月角?衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス」とあって、池田に家老が居り、屋敷を構えていた事が伺えます。その場所は、池田城の西から猪名川にかけてのいわゆる池田の旧町にありました。また、池田城主郭の東側も武家屋敷があったと考えられる事から、ここにも上級の侍(家老など)屋敷があったのではないかと思われます。
さて、その重臣や家老の屋敷ですが、近世城郭のように侍町や商人町を分けて都市整備をするスタイルではなく、それは混在していたようです。しかし、もっと考えを進めれば、これまでにもご紹介したように、侍屋敷をある程度は城の周りに配していたことは判りますし、中世城下町はどちらかというと武士が町を支配する形態ではなく、町の防衛を担う武士としての存在意義が強かったと考えられている事から、この商人屋敷と侍屋敷が混在していたという現象は自然だったのかもしれません。そしてその事が、町と武士との関係を伝えているようでもあります。
だとすると、主郭東側の侍屋敷はどんな関係だったのでしょうか?侍が集住していたらしいのですが...。気になります。
摂津池田家は、摂津地域では最有力の国人で、その近隣に多くの代官地(半ば自領化)を有していましたので、そこに居る有力者との交流や共動も盛んだったと思われます。また、縁組みなどで、池田家は多くの同盟者を有していたようです。
当然、池田において、このような縁者と話し合いなども行われていただろうと思います。他の当時の戦国大名のように、池田でも家臣内の有力者は池田城下に屋敷を持っていただろうと個人的には考えています。今のように、交通や通信が十分発達していない頃はやはり、そのようにして集まり、集団の利害(益)調整(発展)がなされていたのだろうと思います。
こういう点については、地方国人からの視点で明らかになっていませんが、やはり、池田城内において重臣・家老会議は日常的に行われていたと考えるのが自然だと思います。その背景として、家臣の集住などもあったと考えています。
ちなみに、写真は近世城郭内の展示コーナーで会議の様子を再現してあったものですので、中世の頃とはちょっと趣をことにしているかもしれません。
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