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<池田城の防衛線>
少し前でも触れましたが、池田城自体の大きさを考えた時、館城に住む地方豪族というよりは、これ程の規模の城を持つのですから、ちょっとした戦国武将の体を成す国人と考えても良いと個人的には考えています。実際、池田氏について書かれた歴史書などは「守護大名にも匹敵する程の経済力を持った...」とか「北摂の雄」などと書かれ、その大きさを示したものが多く有ります。
言い伝えや記録などでは、池田城の主郭を中心としてその周囲に、池田城に関する断片的な跡があります。また、池田氏自体の経済力や立場から考えて、池田城を本城とした支城や館を周囲に持って、その防衛や連携体制を築いていたのではないでしょうか?
人物往来社発行の「日本城郭全集9」には、池田市域に八幡城、木部砦、神田砦、今在家城、西市場城があったと記されています。更に、古くからその地域にお住まいの方に聞いたり、他の記録などでは東山(細河地区)、オダノカイチ(細河地区)、中之島城(石橋地区)、宇保(宇保地区)、五月山山頂(愛宕神社付近)、加茂城(川西市加茂地区)などに何らかの「イワレ」があり、某かの施設があったと思われます。
また、池田周辺の村々は池田を中心として様々な利害を共有していたと考えるのも不自然ではなく、ある意味で共同体的な性格を近隣の村々は帯びていたとも考えられます。
そういった見地からは検討もされていませんので、発掘などの行動結果が残されているわけではなく、いわゆる実態のないものなのですが、これらの内いくつかでもあったとするなら、村は単体では存在するのが難しく、地縁による池田氏の強い影響(池田氏は豊島郡をほぼ支配していた)を受けていただろうと思います。想定しているのは本城とそれを補完する支城の関係ですが、加えてちょっと興味ある資料を見つけました。
江戸時代、大坂堂島にあった米相場の変動を伝えるため「旗ふり通信」というものがシステムとして確立されていたということです。
これは電話の発達する大正時代頃まで使われ続けていたシステムですが、当時の他の伝達手段(飛脚など)のどれよりも情報を早く伝える事ができました。当時は大阪からその周囲に連絡台が設けられ、天候によって白と黒の旗を使い分けて伝達されていました。簡単な手旗信号によるもので、また、台の跡が吹田市千里山西の住宅街などに残っています。