城下御用商人
A purveyor for the Ikeda family.
室町時代後期、摂津池田家は豊島郡(現池田市全域・豊中市・箕面市のほぼ全域、吹田市東の一部に相当)をほぼ治めて、その近隣へも勢力を浸透させる程になり、摂津国の郡代ともなったと推定されています。
摂津池田家がこれ程の力を持てば、それなりに大きな所帯となって、消費されるものも増えて行くのは自然な事です。必然的に町は大きくなり、人も集まるようになります。
また、そういう人々の消費を支える供給も起こります。その中から、当然、人間的な繋がりも起こります。
記録上、気になるものがあります。1537年(天文6)4月23日、呉庭庄(現池田市宇保町一帯)に居住していたらしい塩屋彦右衛門尉が満願寺(現兵庫県川西市満願寺町)へ永代譲与の譲状を発行しています。
この「塩屋」とは屋号で、呉庭庄で塩の販売を主に行っていた商人のようです。塩は人間の生活には必需品です。また、呉庭庄とは摂津池田家との結びつきが強い地域というのもあって、塩屋彦右衛門尉というのは、池田家とも関係があったのではないだろうかと個人的には考えています。
他にも池田家との商業的(経済)な特性の繋がりとしては、大雑把に満願寺屋などの酒造関係者、それにも付帯する炭を扱う関係者(本願寺日記に炭のやり取りの記録あり)、鍛冶職人(本願寺日記に「鍛冶炭」の記録あり)、米商人などが考えられます。
こういった池田家の成り立ちを支える産業に従事する人々は、「座」のような組織を作って、共同体的な関係があったと考えられます。
池田城跡の調査では、基本的な「惣構え」の構想も指摘され、更に核となる城の構造では、一番外側(いわゆる三の丸)に御用商人などの城と関わりの深い人々が収容されたと推定される空間があります。
これらは、記録上からの個人的想像ではありますが、やはり、発掘調査でも指摘されるように、城と人との関係は、その空間の意味に繋がるのだろうと思います。翻ると、その空間の広さを見れば、池田城下には、そういった特権的な商人や農民、職人などの規模が推定できるのかもしれませんね。
また、越前一乗谷の発掘調査結果と研究のように、時には池田城下の御用商人や城下の商人も、兵となって戦ったり、戦場ヘ赴いたのかも知れません。
※写真は、福井県一乗谷の朝倉氏遺跡に復元されている町の展示物です。
※池田城跡発掘調査報告書
参考:新修池田市史1、宝塚市史4、日本城郭大系12、
本願寺日記-上・下、池田城跡「主郭の調査」他各発掘資料など
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