三好長慶墓
The Nagayoshi Miyoshi's grave.
戦国時代末期、河内国などを中心に7ヶ国を支配した戦国大名の三好修理大夫長慶が死亡し、この真観寺(大阪府八尾市)で葬儀が行われました。写真右が長慶のもの(基段の上部は後補)で、左はその甥で跡取りの義継の墓です。1566年(永禄9)6月24日、2年間(3年?)喪を秘した後、所縁の者が一同に介しての葬儀でした。まだ幼少である跡取りの義継は13才で、これをも考慮に入れて世間には病中と伝えていました。
この長慶という武将は、細川晴元の内衆として頭角を現し、次第に力をつけて河内国の実権を握っていた管領の畠山高政との政争で勝利し、京都を中心とした畿内を制圧するまでになります。
摂津池田家は、この三好家の武将として傘下にあって、記録にもよく登場します。池田家では、三好家姻戚関係となり繋がりをより深めた時期もあったようです。池田長正は、三好政長の孫にあたるようで、その長正が池田家の当主になっています。また、その後に家督を継ぐ勝正も、1568年(永禄11)に織田信長に降るまで、この長慶(死後は三好三人衆)に従って活躍していました。
さて、このトピックスの主人公である長慶ですが、その墓は真観寺・京都市大徳寺聚光院・大阪府堺市南宗寺にの3ヶ所にあります。その内、この真観寺の墓はその葬儀の頃に建てられたもののようで、他の2つは、三好家の縁者によって建てられたようです。
この時の葬儀の様子を伝えたものが残っていて、京都相国寺鹿苑院の西笑承兌の記録によると、喪主の三好義継は涙にむせび、恩顧の諸士は号泣したとあります。
長慶は、文武両道に長けた武将として歴史研究者今谷明氏は、その著書「戦国三好一族」の中で高く評価されています。和歌・和学を好み、歌集国文学書書写を依頼し、自らも書写、連歌を愛好し連歌師に教えを乞うなど豊かな教養を持った人物でもあると同じく歴史研究家長江正一氏も著書「三好長慶」の中で紹介されています。
葬儀の記録を見ると、やはりそれだけ長慶の生前の恩顧を深く感じる人も多く参加したようです。また、「3年の間なれば死骸殊の外損じけれると聞えし」と遺体の損傷がひどかった事の痛ましい記録も残されています。
今のところ、この葬儀に池田氏の参加があったとの明確な記録文書とは出会っていないのですが、摂津の有力国人として池田家からも、参加者がきっといたと思います。
それから最後に真観寺についてですが、応永年間(1394〜1428)の創建と伝わり、臨済宗南禅寺派の寺院です。管領畠山尾張守満家の願いで開山し、その後も畠山氏の庇護が厚かったようです。その後、大坂夏の陣で焼失し、金地院崇伝により再興されて隠居寺となりました。
また、平野郷、久宝寺、八尾など重要な大きな町を周囲に持ち、大和路もすぐ近くに通っていました。
近代に入って寺は縮小していったようで、今は寺の中心部を残すのみとなっています。ちなみに長慶の墓が元あったところは現在、近畿自動車道となってしまっていて、今の場所とは違うようです。
お寺の方にお聞きしたところ、最近は徳島県で「三好長慶を大河ドラマにする会」などが結成されて研究が盛んになっているとの事でした。お寺にも観光バスを仕立てて、大挙して来られる時もあるとか。私は以前から興味を持っていて、自分の空いた時間に突然訪ねたのですが、とても親切に色々教えて頂いて勉強になりました。ご住職さん・奥さんありがとうございました。
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