教育
The Education.
近代・現代社会のように公共的な制度としての教育がなかった戦国時代。しかし、教育というのは、現在を生きる私達のように、戦国時代の人々も同じように大切に考えていた事と思います。
少し話しは外れますが、2003年3月20日に始まった米国等によるイラク侵攻時、ご存知のようにハイテク兵器による圧倒的な米国方の勝利でした。政治の一部としての軍事力を考えた場合の評価は別として、この戦争におけるハイテク武器の運用という点で見れば、兵士が高度な道具(武器など)を使う時にはやはり、ある一定質の「教育」というものが、重要な基本要素になっているのだろうと見られます。
近・現代社会は、教育というものを制度化する事により、更に高度な情報(問題)処理を社会の根底から支え、絶えまなく発展させる原動力ともなるように理念を置いているのでしょう。(あやふやな結びですが、法的な教育に関する定義を読んでいないので、推測的になってしまいました。) さて、基本的な役割としては戦国時代も教育とは、現在のように統一基準を持った制度的な教育はなく、実態は個人の興味や向上心などによる極めて、主観的な形で教育が行われていたと思われます。
高度な教育は、やはり国づくりや家の結束、軍事などあらゆる分野において必要で、摂津池田家でも教育への取り組みが行われていただろうと推定しています。
もちろん、代表的な家(池田家など)では代々積み上げられた教育方法があり、その係りの人材も居た事でしょう。文字の教育など基本的なものは、各々の家で独自に行っていたのだと思います。
公共制度として取り組まれていない時代の教育、それは様々な形をとっていたようです。宗教をはじめとして色々あったと思います。特に宗教はそういった教育(教養)に関わる重要な位置付けがあったようです。
興味ある史料があります。年代不詳の史料ですが、天文年間中期から後期のものと思われるもので、河内国畠山氏内衆遊佐長教が同国真観寺侍者中などに宛てたものに、六韜三略の編集(写本)について、その筆跡の見事さは驚目に値し、本望の至りであると称賛を伝えています。禅僧の学識と戦国時代の兵書研究の熱心さの一端を伺い知る事ができます。
参考: 八尾市史本文編・史料編、完訳フロス日本史1〜3(中公文庫)、
「近代」の意味(制度としての学校・工場)、伝承と創造(民俗学の眼)、
戦国の作法(村の紛争解決)など
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