奈良多聞山城跡
The Tamoncastle of remains in Nara.
奈良市多聞町にある多聞山城跡です。この城は、戦国時代末期に松永久秀が大和国の奈良統治の要として居城したのが有名です。
写真は、現在の若草中学校内に立つ碑です。このあたりが主郭跡だったところで、近くには校内から出てきたのでしょうか、無数の五輪塔が集められて祀られている一角があります。この城を巡って、池田勝正も軍勢を率いて松永久秀方の軍勢と激しく交戦した歴史があります。 さて、1559年(永禄2)8月、久秀は大和国に侵攻して、河内守護代安見宗房に加担する国衆を圧迫していました。この頃久秀は、その拠点として信貴山城へ入りました。 そして間もなく、新たな拠点として多聞城の築城に着手します。その築城時期は、1565年(永禄8)4月の宣教師の通信文で「当城は工事を始めてから5年にもなる」と書かれていることから1560年(永禄3)説が有力になっています。また、多聞城を訪れた同じ宣教師の記録では「城内に多数の塔(櫓?)や堡塁(多聞と推定されている)、多くの階を重ねて倉庫を付属した家が立ち並び、城壁と堡塁は白壁塗りで、御殿の内部は彫刻・壁画・金地で飾られた豪華なものだった」とあります。
当時の大和国内は、筒井氏などの国衆にその統治の運営を依存した体制で興福寺の影響下だったようです。松永久秀はこの興福寺を制するために、至近距離にあるこの多聞城を大和国の首都ともいえる、奈良の町を制す本城としました。
しかし、三好長慶の死後、三好三人衆と久秀は袂を分かち、筒井氏と結んだ三人衆と激しい闘争をはじめます。1567年(永禄10)4月以降、南都(奈良)は池田勝正なども参戦した三好三人衆と筒井氏に対して劣勢となり、松永久秀は多聞山城に追い込まれていました。
ご存知のように、その後の信長上洛でこれに組みし、起死回生の逆転劇を演じて大和国の掌握を再び手にします。しかし、それも長くは続かず、3回目の謀叛でついに大和国信貴山城に最後を遂げますが、多聞城は残ります。
更に筒井氏が大和国の支配権限を復活させた時、国内に中心たる城を構えようと大和郡山に城を築き、その時この多聞城の資材を利用して城は解体されたようです。1577年(天正4)7月頃から、京都所司代村井貞勝の監督下、筒井順慶などが資材を持ち出したのですが、この時点をもって廃城とされています。
多聞山城は、東大寺の北西の山にある聖武天皇陵や仁正皇后陵をも利用して築かれ、南は佐保川を堀代わりにしています。更に佐保川の南の台地に宿院城や石切城などの多聞城を補完する出城も機能させていました。ただ、これは一体化している可能性も示唆されており、現法蓮町方面には城下町の想定もされています。他に、多聞城の北西500メートルあたりに出城(浄福寺のあたり?)などを構えていた可能性も示されています。
また、北の京都から南下する京街道とその脇街道から奈良へ入る交通を押さえる立地ともなっていました。更に柳生や伊賀国上野方面の街道もこのあたりで合流します。
更に更に、多聞山城から北側の木津川沿いの鹿背山城も大城郭に改修して、多聞城と連携した関係を持たせていたようです。京都と奈良の南北の交通と木津川沿いの東西の交通の交差点に鹿背山城があります。
こういった広域の防衛戦構築を含め、城郭史的にこの両城は、多聞櫓などの近世的な概念を導入した非常に重要な城とされています。
<参考>
多聞院日記、言継卿記、奈良県史11+18、奈良市史、木津町史(史料編)、柏原市史4(史料編1)、大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)、織田信長文書の研究、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、奈良県の地名、日本城郭大系10、日本城郭全集9、戦国合戦大事典など
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