草鞋山 西方寺
The Saihoji-temple at Nara City.
行基菩薩によって創建されたこのお寺は、もと多聞山(佐保山麓とも)にあり、東大寺別院であったようです。
永禄2年、三好筑前守長慶衆松永弾正忠久秀が多聞山に城を築くにあたって寺を移転する事となり、時の住持であった祐全上人によって現在地に、草鞋山 西方寺として再興されました。
これについて、時の正親町天皇から南都惣墓所として綸旨(永禄2年8月17日付)が下されています。また、同寺北西にある墓地は奈良最大で、室町期の石仏や石塔が多く見られます。
さて、永禄10年5月17日、三好三人衆と松永弾正少弼久秀が争う中、三好三人衆方として、池田筑後守勝正がこの西方寺に陣を置きます。西方寺のある場所は、東大寺方面から西へ続く丘陵の西端にあたり、西方寺のすぐ西側500〜600メートルのところには、松永方の宿院城があって、多聞山城攻防戦の最前線でもありました。
この日、これに三好下野守入道釣閑斎・石成友通・筒井順慶などが宿院城と多聞山城を包囲、攻撃体制を整えました。
陣所となった奈良の西方寺には、平安時代に高僧慈覚大師が作ったと伝わる阿弥陀如来像(国重要文化財。鎌倉時代)が本尊として鎮座されていますが、勝正もその像に手を合わせていた事でしょう。
また、写真は、多聞山から移転してきた頃の門がそのまま残っているそうで、この門も勝正や池田衆の人々が毎日のようにくぐったに違いありません。静かな佇まいのお寺ですが、勝正ゆかりのお寺としてとても貴重な存在です。
<参考>
草鞋山西方寺様発行のパンフレット、奈良市史、奈良県史、奈良県の地名、多聞院日記、言継卿記、日本城郭大系10、日本城郭全集9、戦国合戦大事典6など
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