見出し:池田氏関係の図録
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画像:奈良県北葛城郡広陵町箸尾の箸尾城跡奈良県北葛城郡箸尾
The battle of Hashio at Nara Pref..

箸尾は『奈良県の地名』(平凡社刊)によると「葛城・高田両川の中間、現大字萱野・大場・的場・弁財天・南などを含む地域。」とあり、ここに箸尾城があったようです。
 城地は、萱野・的場・弁財天に渡り、ほぼ二町四方の環濠集落がそれに当たると考えられています。城を含めて箸尾は、中世には「箸尾郷」「箸尾庄」などと文献に現れるようです。
 ここには、長河荘荘官から成長した箸尾氏が本拠としていて、同氏は大和四家と称される代表的な国人でもありました。また、同氏は興福寺一乗院門跡坊人で、長川(中川)党の刀根を務めた家柄でもありました。
 永禄10年7月、三好三人衆の一人、三好下野守某により池田一族の某が、箸尾郷に知行を得ていたとの記述があります。それは「摂津国豊島郡池田村大広寺所蔵池田系図」にあり、その人物の法名は「宗伯」で、諱など詳しい事はわかりません。
 もっとも、系図中の記述ですので、そのまま事実として受け取る事は慎重を期さなければなりませんが、しかしその時期や場所は全くあり得ない事でもありません。可能性としてはそれを成立させる要素を多く見出せます。
 この時期、池田家当主の勝正は、三好三人衆方として大和国へ入り転戦していますが、敵である松永久秀方を追い、優位的立場で闘争を進めていました。また、この時、篠原長房とも行動を共にする事も多くありました。
 そしてその長房は、摂津国教行寺とも姻戚関係にあり、その教行寺は大和国箸尾郷近くの百済庄などにも進出していました。更にこの頃、箸尾氏は松永久秀に加担しており、前述のように同勢力は三好三人衆方に対して圧倒されつつあしました。
 永禄10年7月頃の箸尾郷とその周辺は、そういった状況にありましたので、欠所となった箸尾郷の一部の土地や代官職の権利などを三好三人衆から恩賞として池田宗伯が受けたかもしれない可能性は、完全に否定できない要素が揃っているのです。系図は誇張が多く、嘘も多いとの理由で史料的価値が低いと敬遠されますが、この場合、これ程詳細に調べて誇張記述をするとも考え難いようにも思えます。しかも、そこまで明らかにすれば、その当時としても調べれば、事実がどうかが直ぐに解るはずです。
 しかし、やはりはっきしりした事はわかりません。今後とも研究を続けたいと思います。

<参考サイト>
環濠は水路に・箸尾城跡(私本 新大和軍記)
武家家伝 箸尾氏

<参考>
奈良県史11(大和武士)、広陵町史(史料編)
、(新)王子町史(資料編)、田原本町史1(史料編)、荒木村重研究序説、奈良県の地名、日本城郭大系10、日本城郭全集9など

2010年1月5日:記
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